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生きているのは誰だ? アジサイ の広場
拓馬 ねき 高1

 人間において、「生」きるのは人自身であり、「死」ぬのもまた人自身である。これは、多くの人が無意識的に抱いている感覚である。心臓が止まり、まった
く動かなくなった肉の塊になった瞬間、人は人を「死」んだとみなす。これは、ごく当たり前であり、それを当たり前と思うことさえもないほどに。しかし、 今の科学は、体の全ての機関に命令を下す脳が滅んでも、人工的に心臓(ポンプ)を動かすことで、「生かしておく」ことができるようになった。そして、それ により、臓器移植において、言わば「生きている」臓器を提供出来るようになった。それは、もう抗いようなく死んでいくはずの肉体を、「資材」として生かす 、ということだ。しかし、それは同時に、血色の良い脳死患者とその肉親に、「これは既に人間ではない」と勧告する、不気味なものでもある。  

 確かに合理的に、科学的に考えれば、これから間違いなく死んでいく体を、助からないとわかった時点で、「死んでしまうかもしれない」人に移植すれば、
これほど良いことはない。だが、人の心は、そうも単純ではない。例え意識の無くなった体でも、そこに確かに血の通った「父」、「母」、「子」がいれば、みす みす他人のために「殺させる」ことなどできようはずもない。  

 そこで人は、「たとえ他の人に取り込まれようとも、それは決してその人になるわけでなく、臓器は臓器として生き続ける」と言う。そこには、「生き得る」
のは決して「人」だけでなく、その断片でも「生」きているという、不老長寿とは又違う「不死性」のきらめきさえのぞいている。  

 死ぬことは、不自然なことではない。事実、自然の中で、「不死」ということがありえるだろうか。時には親がライオンに噛み千切られるさまを草の陰から
見、時には己が虫を食う。自然では、常に隣には「死」があり、「生きていること」とは、「まだ死んでいないこと」である。しかし近代社会は、「死」を「病院」等 の隔離された空間に置き、「死」を隠す。そして、「死」を知らずに育った人間は、全く得体のしれない「死」を極端に恐れる。「生きていること」は「当然のこと」 であり、「死んでいること」とは、「何者かによって『生』を絶たれたこと」としている。そこには、自分にいずれ訪れるであろう「死」を、前者は「覚悟」し、後 者は、分かったふりをしながら、心の中では否定している、という違いがある。  

 よく私は、「あ、明日テストだよ…ったくやってられるか!!」とか、「お、来週はあれ(どれ?)の発売日やんけ!これは気合入れなアカンで~(?)」といっ
たことを、心で、たまに口に出して言う。ここに、「もしかしたら『今日』  

 死ぬかもしれないから、常に明日に目標を持って生きよう!」というニュアンスはない。明日も当然生きてるし、明後日も死んでいない、というのが前提だ
。「死」の意識などかけらも無い。こういう人間が、先進国には多い。そこにはやはり、「死」を知らないということにからんでくるだろう。  

 「死」は自然なものなのに、なぜ我々はこれほどまでに無関心なのか。答えはおそらくこうである。「死」は他人のものだからだ。それこそ肉親が死ねば、「死
」に対して多少の関心が生まれる。しかし、それでも、「近しい人」の人数は限られている。「近しい者」が容赦なく目の前で死ぬ自然の世界とは、比べ物になら ない数だ。だから、我々は、もっと「死」を見ること、そして、自分の生きている、ということは、他の「死」によってささえられていることを忘れてはならな いのではないのか。いつかの長文に、「現代は、めしを食うのに、『調理』という項目が抜けている」とかいてあった。食べ物は、他の命の賜物である、とい うことだ。ここにも、「死」を考えることのできない現代人の原因のひとつがある。「私たちの幸福が、ほかの人びとの不幸に支えられているのであってはなら ない。」とは言うものの、「私たちの幸福は、他の多くの犠牲にささえられているものである」ということもまた、否定できない事実だ。  

 ここまで述べてきたが、結局脳死移植についてどうかといえば、私は、基本的に反対だ。というよりも、今の人間の段階でそれをするには、あまりにも荷
が重いと思うのだ。「死」を受け止められないようなことでは、到底「死」を判断することはできないし、「脳が死にました。だから臓器を運びます」というよう なことは許されないと思う。確かに、それらを必要としている人がいることは事実としてある。しかし、私が思うのは、「そういう人がいるから、今はうやむ を得ず、取りあえず」でいいのか、ということだ。今、「ドナーカード」という、意思表示のためのカードがある。正直、私はまだそれを持っていない。近い将 来それに記入するとしたら、現段階では、「提供しない」つもりである。もし私がその提供される側の人間ならば、必要としている臓器以外の臓器を、おそら くは提供すると言うだろう。しかし、現時点で第三者の視点である(もちろんこれから何があるかは分からないが。)私から言わせてもらえば、私が私である アイデンティティーは、決して心の中にあるものだけでなく、それこそ足の爪先から、髪の毛の先端までなのである。これが私だ。私は運良く五体満足なの で、その足で土をけり、その手により、多数の手段によって、自己を表現してきた。その1つでも欠落することは、私の存在さえ欠落することであると考えて いる。もちろん、それは死んでからも言えることだ。そして肉体も、等しく散って欲しいと思っている。私の肝臓だけ生きているとか、心臓だけ生きている なんて、考えられない。この作文がもし他人の書いたもので、それを私が読んだら、「何てヤローだ!」と思うに違いない。しかし、これが私であり、現時点 で否定することのできない自分なのだ。こういう思いを、私の意見はともかくとして、それぞれが持つべきである。持たなければならない。  

 追伸:ホントに偉そうな文だな…。
 

 
                                       
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