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ためにするなにか イチゴ の広場
眠雨 うき 高2

 近年の日本では物が蔓延し、心による触れ合いが徐々に忘れ去られている。金額の大小ばかりに目をとられ、感謝や喜びといった自然な心象には薄靄がか
かっている。我々は心のこすれ合う感覚へ、もっと意識を集中させてみるべきではないだろうか。  

 心の忘れられつつある原因の一つは、恐らくは敗戦と、その復興に伴う急速な資本主義の発展が挙げられる。資本主義の発展によって「稼ぐ」ことが美徳
とされ、がむしゃらに仕事に従事する人々は他人の心を考える余裕は無くなり、やがて人を食い物にする、犯罪紛いの「稼ぎ方」すら生まれていった。  

 またもう一つの原因として、日本は諸外国と違い、強い土着の倫理的規制力、つまり強い勢力を持つ国教が生まれなかったことがあるだろう。仏教もキリ
スト教も伝わったが、自らの悪行に恐怖するほど他国の文化を信じる者は、国民の中に少なかった。そして日本人の「ためにする(Do For One)」気持ちは、結局エゴイズムに勝るほどにはならなかったのだ。  

 確かに誰かの心ばかりを気にしては、不安のあまり結局なにもできなくなってしまう。自分の働きかけるひとくさりが、相手の心に及ぼす影響を考えては
、碌に会話もできないだろう。だがただ傷つけるよりは、相手に与えた傷と踏みにじってしまったものの在ることを知り、内省すれば、過ちは少しずつ減っ ていく。その恐れを無くしてはいけないが、恐れに縛られてもいけない。心というものは、ガラスではなく粘土である。いかに一見の形が変わろうとも、取 り返しのつかないものなどそうそう無い。自分の傷つく心を知り、相手の傷つく心を知り、手加減を知り、触れ方を思いだしていけば、人の分かり合うこと を知ることも、決して難しくはないのではないだろうか。                                                    
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