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餅屋との交わり イチゴ の広場
眠雨 うき 高2

 近年の社会では、専門家の知識がもてはやされている。具体的な数字や様々な論拠を挙げてみせる彼らの言葉は、たしかに説得力がある。しかし逆に、そ
うした理論面のみでは解決できない問題があるのもまた確かで、それは主に「人の心」という分野において顕著である。専門知識のもつ説得力に囚われず、 非論理的であろうとも人間的な視点を持つことが、近年の人々には欠けている。  

 専門知識が重視されるようになったのは、以前に比べ生活に、より「複雑なもの」が増えた感覚があることが、理由の一つに思われる。進歩した文明の利
器は我々の生活に密着しているにも関わらず、機器の構造は複雑になり、故障したりすればおいそれと動かせない。そこでそうした専門ごとを商売にする人 へ頼む。次第にそれはサイクルとなり、やがて機器を仲立ちとして、専門家への信頼、ひいては依存、餅が欲しいから餅屋へ行こうという関係がつくられる 。それ自体は悪いことではないのだが、様々の専門家もやはり商売なのだ。手放しでの信頼をするには危ないこともある。  

 またもう一つの理由として、社会構造の分業化があるだろう。法律屋、医学屋、経済屋…大学の学部の段階から既に「すみわけ」は顕著で、お互いの領分
を維持しながら専門バカが育っている。そして必要な時には相手の専門分野の知識を借り、自分の分野の知識を渡すという暗黙の関係が成立している。数学 がわからない文学部学生、作文のできない理工学部学生の問題は指摘されるようになって久しいが、未だ有効な対策は打たれていない。必要とされているの はお互いの意識上の改変であるために困難ではあるが、相手の専門分野であろうとおかしいことには「それはおかしい」と口を挟める力、また自分の専門分 野に口を挟まれてもシャットアウトせずにいられる力が、いま必要とあされている。  

 確かに専門分野においては無理に一人でやるよりも専門家に頼る方がいい結果を得られることが多いし、無理にすべてを一人でこなせるようになる必要は
ない。危惧しているのは専門家への手放しの信頼であり、分析が到底及ばない分野においても我が物顔で話をすすめる専門家へ、疑惑をもつことができなく なることである。人間の究明できることは少ない。少なくとも、現時点で人が究明できていることは驚くほど少ない分野もある。そうした未開拓の分野を切 り拓くのは専門家の仕事だが、未開拓の段階においての判断に我々が軌道修正を加えなくて良いということではない。現代の社会では見切り発車しているそ うした専門分野が多いというのも、また事実だ。餅は餅屋で買えばいい。だが餅屋に餅のすべてを任せきりに、するべきではないのだ。                                                    
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