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私はだぁれ? |
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中2 |
ふしぎ」と言えば、「私」という人間がこの世に存在しているということほど「ふしぎ」なことはないのではなかろうか。自分が意志したわけでもない。願 |
ったわけでもない。ともかく気がつくとこの世に存在していた。おまけに、名前、性、国籍、貧富の程度、その他、人生において重要と思われることの大半 |
は、勝手に決められている。こんな馬鹿なことはないと憤慨してみても、まったく仕方がない。その「私」を受けいれ、「私」としての生涯を生き抜くこと |
に全力をつくさねばならない。 |
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いったい「私」とは何ものであろう。このことは人間にとって、もっとも根本的な「ふしぎ」のようである。この「ふしぎ」な存在について、ある程度、 |
これが私だという実感をもたないと、うまく生きていけない。生まれてから、だんだんに成長していく子どもを見ていると、その時期に応じて「私」という |
感覚を身につけていくのがわかる。二歳にもなると、「これは自分がするのだ」という明白な意志を表明する。あるいは、「いや」という拒否を示す。これ |
は「私」という存在でこそ言えることである。外界に対して、それに対立する存在として「私」が意識されている。 |
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このようにして、だんだん「私」の実感ができあがってくるようだが、「私」とは何ものか、というように比較的はっきりとした形の疑問が生じたり、他 |
と異なるものとしての「私」が存在する、と感じるのは、どうも十歳前後のようである。このことは、児童文学の名作の主人公に十歳前後の子が多いことに |
よっても示される。 |
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が児童文学を好きなのは、このためである。確かに「大人」として生きるのも大変なことだ。お金をもうけねばならない。地位も獲得しなくてはならない |
。他人とスムーズにつき合わねばならない。それらは大変な労力を必要とするし成功したときには、やったという達成感もある。しかし「いったいそれがナ |
ンボのことよ」と「たましい」は言う。その声をよく聴く耳を子どもは持っている。あるいは「たましい」の現実を見る目は子どもの方が持っている。その |
ような子どもの澄んだ五感で捉えた世界が、児童文学のなかに語られている。だから、児童文学は、子どもにも大人にも読んでほしいと思う。 |
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存在すると言う事を、人は求め続けて来た。その存在理由を、自分自身に認めさせるために、神話を作った |
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のではないのか? |
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物事は、たくさんの面を持っている。普段認識している面は、所詮たくさんの面の中のちっぽけな一面に過ぎない。 |
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一面だけに目を向けていたのでは、すぐそばのたくさんの面が見えなくなってしまう。 |
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たくさんの面に目を向けるという事は、つまり、地獄に適応する方法みたいなもの・・・・・では? |
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色々な面から見る事は、とても大切な事なのだ。小学2年生から、現在にいたるまで、長い付き合いをしている友人 |
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がいる。乱暴で、自己中心的、その上激情家、端から見れば、絶対に付き合いたくないような奴だ。 1面だけを見るのならば、彼は、友達はいなくて当然 |
だと、思うだろう。しかし、実際は違った。 彼は人をひきつける魅力を持っているのだ。たしかに、乱暴で 自己中で、 とんでもない激情家だが、 |
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人をひくユーモアを持っていて、親友を心使う心の底からの優しさを持っていた。だからこそ、 彼は好かれた。自分でさえ、彼の事を、世界でイチバン |
信用できる親友と思っている。 たしかに、一面だけを見るというのも良いが、一面だけでは見つからない世界がある。ただ一面を |
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ひたすら追うだけなら、はっきり言って幼児にもできる。一面だけを認めるのではなく、 他の面にも目を向け、足を進める事こそが、人生最大の難問で |
ある。・・・・・・・・・たぶん! |
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