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フィクションとノンフィクションの比較結果 アジサイの広場
クラシックしふ中2ノンフィクションの書き手は、在るものを映そうとし、フィクションの書き手は、在らしめるために創ろうとする。 

 たとえば、先にあげた「『事実』の呪縛を超えるもの」という座談会の中で、小説家である加賀乙彦は、実在の人物をモデルにした小説『錨のない船』を
書くという体験に即して、次のように語っている。昔、アンドレ・ジイドが「フィクションの方が真実で、ノンフィクションは真実から遠ざかるだけだ」と言ってますけど、僕も同じような考えで、フィクションが多ければ多いほど真実に近づいていくっていう経験を今度しましたね』 

 ここには、フィクションの書き手の、創るということの絶大な自信と、あえていえば傲りが、驚くほど率直に表明されている。確かに創るということを認
めるなら話は簡単だ。他人というものはついに、理解することはできないのではないか、という苛立ちからも脱け出せ、事実の核に到達できないのではないかという絶望からも解き放たれる。自分の身の丈に合った「真実」とやらにも接近できるだろう。しかし、想像力による事実の改変や細部の補強という方法は、記録というものには限界があるのではないかという問いへの答にはなりえない。 

 
 

 たしかに、フィクションは良いものだ。もし、なにか、表したいものがあるのなら、
 

 フィクションほどおもしろいものはない。少し前までは、学校で「高円寺純情商店街」
 

 (六月の蝿とり紙)という、作者の少年時代の物語を勉強していた。読んでみると
 

 明白ではあるが、おそらくこれはフィクションだろう。いやいや、……もちろん、完全なフィクションではない。自分の少年時代をもとにしたフィクショ
ンなのだろう。 

 ノンフィクションは、自分の満足できる結果になるとは限らない。しかし、フィクションであれば、話は別だ。それならば確実に自分の満足できる結果が
作れるのだ。 

 これが、ノンフィクションの短所、フィクションの長所となる。
 

 ……現実逃避もできるが(笑)  しかし、フィクションは、しょせん作り話、
 

 鮮明で、確実な真実にたどり着く事はありえない。 それこそ、100%である。 昔話……ではないが、僕が昔読んだ本についてお話しよう。
 

 かの名作小説に、ネバーエンディングストーリー(はてしない物語)というものがある。 大人にちかずくにつれ、子供の頃頭に描いた空想世界、ファン
タージェンを忘れていく子供たち、やがて、その閉鎖された空想の世界は、むなしさとなり、怪物、虚無を生んでしまった。その怪物は、ファンタージェンからあらゆるものを奪い尽くした。 その危機を知った幼心のきみ(王女)は、アトレーユという少年に、アウリンと言う 

 宝物を授け、冒険に旅立たせると言う話である。幸運のホワイトドラゴン、フッフールや、 地の精霊たちに励まされながらも、ついに、もう一人の主人
公、バスチアンのところまでたどり着く、一方、バスチアンは、現代社会(おそらくニューヨークあたり) の現代人で、デブ、短足、いじめられっこの少年である。かれは、ある日、ひょんな事から、はてしない物語と言う本を手に入れる。この本は、実は、魔法の本で、 

 彼ははてしない物語に、虚無からファンタージェンを救うため旅立つと言う話である。 読んで、なくほど感動した本は、これが始めてだったと思う。 
ぜひ皆さんも読んで欲しい、クラシックの一押しする本なので…… 

 それはそうとして、フィクションはフィクション、ノンフィクションはノンフィクションで、孤立していのではない。互いに押し合っているだからこそ、
はじめて、それが、 フィクションであろうと、ノンフィクションだろうとおもしろい、あるいは感動する 物語になるのではないだろうか…… 

 
             
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