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イチゴ の広場
潤之介 かな 中2

 父としての役割は、立派な父でないと果たすことができない。立派でない父が家族を統合しようとし、理念を掲げても、家族から無視されるだけである。
そもそも「立派な」子どもたちから煙たがられる。「ありのまま」がよいとされ、「立派」なのは無理していると見られ、不自然だとみなされる。価値観を 押しつけることは絶対にしない。子どもの自主性を重んじて決して強制はしない。何をするのも自由放任である。そういう父親の子どもは精神力がなく無気 力になりがちなので簡単に不登校になったり、逆にわがままになると「いじめ」に走ったりする。  

 
 

 昔の父は、子供にしっかり文化を伝えていたと思う。例えば原始時代である。父がしっかり息子に、狩りの仕方、家や日用品の作り方、火のおこしかたな
どをしっかり伝えていた。だから子供は父を尊敬し、真似して次の代に伝えていった。だからその頃の父には威厳があり、説得力もあったと思う。だが今の 父と子はどうだろう。父は会社にいき、子供は学校。帰ってきても、子供は携帯電話で仲間とメールをし、父はというとやることが無いのでカラオケで歌っ てたりする。ようするに、接するチャンスが昔より圧倒的に少ないのである。たまに子供に優しく接しようとしても、普段接してないので、話の内容にズレ が生じてしまう。ということは、お互いに住んでる文化が違うということであって、父の言葉にも説得力が感じられなくなり、子は父を尊敬しなくなる。や がて子供は大人になり社会という壁にぶつかることになる。そういう時、厳しい強い父親に育てられた子供は、小さい頃から父という壁にぶつかり、はねと ばされているので、いざ一人で社会という壁に立ち向かった時も、少しはねとばされたくらいではへこたれずに、むしろ、「何だこの野郎」と意気を強めら れるかもしれない。しかし、優しい弱い父親に育てられた子供は、小さいうちから父という壁を軽々と乗り越えてしまう。その結果、社会という大きな壁に ぶつかった時、すぐくじけて落ちぶれてしまう。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす・・・・・本当に子供のことを考えている親は、子供に厳しく接する ものである。  

 だが、この厳しい父が、傲慢な父や、ただの横暴な父や、独裁的な父であってはいけないと思う。俺が一番。俺の言うことが正しい。俺こそがすべて。そ
んな考え方をしている人は、誰も尊敬しないし、誰も集まらない。あくまでも、立派な父というのは家族を統合したりすることのできる父のことである。全 員の意見を聞いて、それに見合った答えの出せる父のことである。全員の意見を聞いておきながら、「でも、うちはこれがいいからこれで決定。」というよ うな父は父にむいていない。そんな人が父になると息子も、「なんだよあの親父、いつもいつも偉そうにしやがって。」と尊敬しなくなり、そのうちに意見 のくいちがいにより家庭内暴力などに発展するかもしれない  

 文化を伝えるということは確かに文化をおしつけるということだが、そのおしつけ方が下手な父も、父でなくなった父の典型だと思う。意識的に厳しくす
ることを捨ててしまった友達のような父はもっと悪いと思う。それは父親という責任から自分を外したいからそうするのだと思う。本人は思ってなくても、 自然に外れていくものである。  

 厳しい父親は子供を育てるうえでとても重要な役割である。ただ厳しすぎると子供から煙たがられるし、甘やかしすぎると、子供は付け上がる。自信過剰
などもってのほかである。本当に厳しい父というのは、多少のゆるみも知っている父のことではないのだろうか。  

 
                                             
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