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美の幸せ |
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横浜太郎 |
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高1 |
美というものを考えるときに、「これなくして美を語れない」というものに『美意識』というものがある。一般的に、日本人と西洋人との美意識を、美の |
一つの集大成である庭園で比較したときに、日本人は、雑然と、つまり自然に近い形の庭園を好むのに対して、西洋人は、シンメトリーの概念に代表される |
ような人工的に均整のとれた庭園を好む、そういう違いがあるといわれている。なぜ、完全に対称でないとはいえ、両地域の美意識がここまで違うのだろう |
か。 |
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例えば、ピカソの絵を見たときどう思うか。僕の周りでは、「あんな落書きみたいなの、俺だって描けるよ」という声がよく聞かれる。しかし、本当にそ |
うであろうか。僕はピカソ研究家でも美術の先生でもなんでもないので、あくまで一高校生の意見として聞いて(読んで)いただきたいが、僕には決定的に |
ピカソの絵と落書きが違うところがあるように思える。ピカソの絵は、対象物を描いていく中で、その対象物を表現できなくなり、あるいは極を突き詰めた |
ところ、結果的に対象物の「芯(真)」のようなものしか残らなかったのでああいう絵になったのではないだろうか。一方落書きは、極を追求したのでもな |
んでもない、ただの自己満足にしか過ぎないのではないだろうか。それがいけないと言っているのではないが、落書きでは、感心させられることはあっても |
感動させられることは極めて珍しい、いやほとんど皆無に近いのではないだろうか。これらの絵を見てどう感じるかは個々の美意識の違いである。地域的な |
美意識の違いはこうした個々の美意識の違いから生まれてくる。 |
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美というと、どうも芸術のことにばかり考えがいってしまうのだが、美というものの中には、というよりも本来は美というもの自体が生活なのではないか |
と思う。着ていくものを選ぶにしても一種の美意識が表面化されるものであるし、部屋のアレンジ及び整頓、果ては食事や睡眠にも美というものは大いに関 |
わっている。また、個々の生活のほかに社会集団的な生活にも美が大いに関係しているように思える。それだけ我々の人生に、「美」は大きく関係している |
ということだ。 |
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では、何を基準に美を定めるのか。これはなかなか難しい問題で、数学の定義のようには、うまく定義出来ないようだ。しかし、明確な定義は出来なくと |
も、ある程度共通の美意識があるのではないか。よく思うのは人工的なものは好みの違いが激しく、自然なものはそれほどでもないということか。例を挙げ |
ると、「ワイルドブルーヨコハマ」。確かに見た目は本物の海らしく、また波も本物に近いが、やはり本物とは異なる。いくら手の込んだことをしても、雰 |
囲気というものが違うと思う。どんな人工的な豪邸でも、必ず庭に樹木があるのは、やはり自然なものがなければその場所の雰囲気が殺伐としてしまうとい |
う、本能的な美意識からきているものだろう。 |
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イソップ童話だったかグリム童話だったかちょっと忘れてしまったが、「都会のねずみと田舎のねずみ」というような話があったのを覚えている。都会に |
住んでいるねずみと田舎に住んでいるねずみが、それぞれ相手の住んでいるところを羨ましがり、互いに住んでいる所を交換する、という話だった。美意識 |
とは、ある意味、「羨ましい」という一種の欲望である気もする。「美しい!」と人が発するのは、それが「美しい体験」だからだ。以前、沖縄の西表に行 |
ったときに聞いた話だと、沖縄の人は、サンゴがあるのが当たり前すぎて、それを美しいともなんとも感じないというのだ。僕も横浜に住んでいて、近くに |
近代的な建物や何やらがあるのを、特に素晴らしいと感じたことはあまりない。結局、美とは欲望なのではないだろうか。しかし、前記の二匹のねずみは、 |
最初のうちこそ感動していたものの、最後は自分の住んでいた所のほうが良かったなと思い、二匹とももと住んでいた所に帰ってきてしまったらしい。つま |
りは、美というものも、自分の美を美と認識しない時が、要は日本人が雑然した、西洋人がきちっとした庭園を美と感じないうちが、幸せということなのだ |
ろうか。 |
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