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ちょこっと古い物 ウグイス の広場
友里 あむろ 中2 百年以上家具を使ったという例は別にめずらしくはない。イギリスだけではなく、中国でも日本でも代々その家に伝わる家具というものがあった。使い方さ え間違えなければ、家具にとって百年というのは、むしろ短い時間と言える。またかなり荒っぽく使ってもそう簡単には壊れはしない。最悪の場合でも、無 垢の天然木を使っていれば、ほんの少し修理したらまた使える。東京の新宿に  

 「ダグ」という喫茶店があるが、その中に使われている家具は三百年以上も前のがかなりある。そして、毎日毎日、いろいろなタイプの人が使いつづけて
いるのに、今でもまったく問題がない。それどころか、永年使いつづけた味わいはますます深まっている。  

 それに比べたら、車や家電製品はほとんどのものが十年以内の寿命である。そして、十年も使いつづけた後は、ほとんどの場合鉄くずの価値しかない。と
ころが、オーク・ヴィレッジの家具は、ほぼ車一台の値で、家に必要不可欠なものがそろう。そして、十年たってもまず価値が下がるということがない。い や、良い家具はむしろ十年ぐらい使い込んだ方がよくなる。こうしてみると、無垢の天然木を使った質の高い家具を百年使うとなれば、それは車や家電製品 より何倍も安く、かつ生活を快適にするのに効果があるということが納得できる。  

 経済面から考えた効果は、実のところ「百年使う家具」のもっとも重要な要素ではない。無垢の木でできた質の高い、テーブルやデスクや書棚を生活の中
に入れてみると、人間の意識が変わるのだ。薄っぺらな合板と無垢の天然木は存在感が違う。そして、単に迫力があるだけでなく自然素材特有の温かさと柔 らかさで、私たちを受け入れてくれる。だから、うまくその家具に付き合うのはむつかしいことではない。例えば、良いテーブルの上では、自然に毎日の食 事をより大切に味わうようになる。私たちの眼の前にある食物となっている自然の恵みに素直に感謝しながら食べられるのも、無垢の木のテーブルだからこ その効果だ。会社の会議でも、せせこましいことで腹立てている人に、なるべく百年の木目からのメッセージをとどけるようにしてみよう。本物の木を使い 、本物の造り方をした家具は、本物の人間を育てるようになる。百年の木目は、いまだ未熟な私たちを、控え目だが確実にしっかり応援してくれるはずだ。 そして、木の家具と対話しながらの日々は、ほんの少しずつだが、私たちの意識を変えていってくれる。  

 本物の木の家具と永く付き合おうと思うと必然的に二十一世紀が問題となる。「子供や後輩をどう育てるか」が結局「二十一世紀をどう育てるか」に結び
つく。二十一世紀を担う人間たちの基礎をどう造るかはきわめて大切な問題であり、かつきわめてむつかしい問題である。現在のところ、日本の公教育は、 未だ時代錯誤の「工業化時代の生産様式」でもって、応用力のないひよわなマニュアル人間を造りつづけている。人類の大変動期にあって、こんなことでは 先が思いやられる。また、身の周りが、安っぽい工業製品であふれていたためか、若者の興味が安っぽく薄っぺらなものばかりに集中している。このままで は、世界全体が刹那主義に走るか、安直なカルトに走るかになってしまう。  

 そんな不安を超えようとした時、そう簡単に特効薬は見つからない。即効性の薬を求めること自体が、ミイラ取りのミイラ現象なのだから。そこではやは
りすぐには効果がなくても、ジワリジワリとそれでいて心の底深くに一自然の声がしみとおっていくような方法がよい。私は、ここでも「百年使える百年の 木目をもった家具」こそ、無言だが、もっとも説得力がある対話相手のように思える「無垢の木の学習机を子供に買ったら、子供の生活態度が変わった。」 という報告も、何度も受けている。若い素直な感性があれば、百年以上もある木目から、二十一世紀末までも見すえた遠大で深遠なメッセージを、きっと読 みとれるはずだ。  

 なにしろ木というものは、種から発芽して数百年から数千年生きる生命力を基本的にはそなえている。そういう基本的な生命力を人間が木や年輪から感じ
取るだけでも意味あることだ。しかし、さらに重要なことは、木はその生命を持続していた間、すなわち自らの体を少しずつ大きくするという生産活動をし ている間、まわりの環境を良化することはあっても、悪化することは全くないということだ。これは人間を筆頭とする動物には、絶対に見られないことであ り、この木の生き方こそ、二十一世紀という環境の世紀のためにもぜひとも我々人間はまなぶべきだろう。                                              
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