先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
目あきVSめくら イチゴ の広場
潤之介 かな 中2

 数年前、私は一人の土地の盲人と二人で神話・昔話を採取して歩いていた。彼の手を引いて山道を歩いている時に、彼は、こう語りはじめた。目あきは、
何でも見えるために、何でも解ると思っている。でも目あきが見ているものの中で目あきが記憶にとどめるのは、その百万分の一にすぎない筈ですよ。草の 一本、一本、石ころのすべてを目あきは記憶しますか。しないでしょう。 私たちはたしかに眼は見えません。しかしその代償として、心の眼を与えられて います。心の眼は諸々の器官を「見る」ために動員するのです。それに、これらすべてを融合して、「遠く」をみるために、周りのものに対する「優しさ」 が加わらなければなりません。  

 確かに、私達目あきはなんでも見えると思っている。実際に、表面的なものなら、私達は、それが途方もなく遠い位置にないかぎり、なんでも見えるわけ
だ。その点では、めくらよりか有利である。信号でいちいち迷わないで済むし、泥棒などの侵入にも気づく。しかし、めくらの場合は表面的なものならまっ たく見えないが、ものごとの深い部分にある真相が見えるのではないだろうか。それに、目が見えないから、一見ありそうに無いことでも、簡単に認めてし まえるのではないだろうか。こう考えると、目あきの言うこと、行なうことはすべて、筋が通っていて、話の内容もわかりやすく相手に伝わる反面、表面的 なものに頼り過ぎて、話の大切さを消し去っていることもある。逆にめくらの言うこと、行なうことは、一見筋が通ってないように思えるが、物事の真実の 根に達しているものだ。  

 しかし、目あきにもいい面はある。なによりも目が見えるということだ。当たり前だが、目をつぶって行動してみると、とてつもなく恐ろしくなり、心配
になる。なにより物に当ることが恐い。どこに、なにがあるか、わからないため、勢いがついたまま、タンスの角などに小指を当てたりすることがあり、恐 い(体験談)。それに、目あきの人でも、充分に物事の真実の姿がわかっている人もいる。ただ、その数が少ないだけであって・・・。それに、目が見えると 、危険を感知することができる。例えば上にあげたように、信号が赤だとか、毛虫がいるとか、他にも色々な危険が世の中にはたくさんある。それも、見え ないとなるとかなりの恐怖のはずである。目が見えてよかった〜。とつくづく思った。  

 上の意見をまとめると、めくらは何も見えないが、物事の真実が見える。目あきは、真実の姿は見えにくくなるが、目の前にある画びょうなどが見える。
貴方だったらどちらを選ぶ?私だったら、恐らく、両方に良い面があるのだから、片方目あきで、片方めくらに・・・・・  

 
                                                 
ホームページ