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石と人生の密接なる関係 アジサイの広場
横浜太郎あわか高1

 もし街頭で、「石といって思うことは何ですか」と聞かれたら、「道端に転がっている、在って無いような物」ということくらいしか答えられな
い。都会に生きている我々は、普段“石”というものの存在を意識することはほとんど無いのではないだろうか。よって、この機会に、一度石とい うものの存在を考えてみようと思う。  

 石を意識する機会といえば、川原の州くらいではないだろうか。何事も、集まっていれば目に付くものである。しかし、普段意識しないからとい
って、存在価値が無いわけではない。普段、空気を意識することはほとんど無いであろう。しかしこれが無ければ、我々は生きていけない。石につ いても、台地は石から出来ているし、地球自体石でできているといっても良いだろう。また、仮に石がダイヤモンドくらいの硬さであったら、石器 が作れないので、我々はこのような知的生命体に進化しなかっただろう。一見、存在を意識することがあまり無いので、存在価値がないと思いがち であるが、石にも充分存在価値があるのである。  

 時に人間も、極論であるが他人を石のように意識しないことがある。例えば町を歩いているときも、髪型が気になるとか、惨めな服を着てきたと
かでない限り、他人を意識することがあるだろうか。少なくとも僕は意識しない。しかし、その意識しない他人に存在価値がないかといえば、ない わけない。どのような意識しないものでも、存在する限り価値があるのだ。  

 「他山の石」のように、意識しない石で磨かれて、人生はやっと光りだすものであると思う。作家、山本 雄三が「人間はな、人生という砥石で
ゴシゴシこすられなくちゃ、光るようにはならないんだ」という言葉を残している。ここで使う人生とは、普段あまり意識しないものが盛りだくさ んなものであるとしていただきたい。他人、時間などである。本当に人間の人生は、意識しないもの=「道端の石のようなもの」で磨かれないと意 味のあるものにならないと若輩ながら思う。またこれが、『石』にある最大の存在価値であるとも思う。  

 
                                                 
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