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自己成長の確約 アジサイの広場
横浜太郎あわか高1

 自分を省みることというのは、結構難しいことだと思う。なにか悪いところがあったとしても、自分にとってはそれが“通常”であり、意識の中
では「悪いところ」というのはないように思えるからだ。  

 一つの手段として、それを行うことができるのが宗教である。しかし、今の日本人の多くは、宗教に対して一種の拒否感を持っていると思う。自
分も、キリスト教信者であるから多少なりとも感じるが、食事をする前などにお祈りをしていると半数以上の人がチラチラと横目で見ながら通り過 ぎるのが分かる。恐らく拒否感の根底は、一昔の新興宗教の、ある特定の集団が、こういう言い方がふさわしいか分からないが「悪い」ことをやっ たためであると思う。その邪教によって、自分を省みる手段を得られないことは、とても残念である。僕が言いたいのは、宗教者というものは、ほ とんどの人が自分を省みることができる人であると思う。ただし一言付け加えると、己を省みる=すぐに悪いところがなくなるというわけではない 。宗教者は、自らを省みて、悔い改める意思がある人々のことである。決して、完成者や偉人ではない。  

 教師や企業の重役、政治家など、自分が他人に教えられることが極端に少ないであろう人たちのなかに、傲慢だったりえらぶっていたりする人が
いないといえば嘘になるだろう。しかし、親の七光りで地位を確立した人ならいざしらず、一世で地位を確立した人であれば、それなりの苦労はし ているのではないだろうか。はたして、学校の教師がみな、自分を省みることのできない、歩く教科書なのか。企業の重役と言われる人たちがみな 、えらぶってただ椅子に座っているだけなのか。政治家がみな、高慢な居眠りなのか。  

 しかし、自分を省みることができなければ、己の“成長”は得られない、というのは事実のようである。ではどうすればよいのか。もちろんいろ
いろ方法はあるが、一歩一歩でもしっかりとした己を見つけていく、そのためにどのような人間になりたいかを明確にする必要があると思う。「僕 は、孫悟空をのせられるような、お釈迦様の手になりたい。しっかりとした手といわれるようになりたい」とは宮本亜門がいった言葉であるが、こ のような明確な目標としての自己を見つけることが、己を省みて自らをバージョンアップする、一つの方法であると思う。  

 
                                                 
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