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豊かさの喪失 アジサイの広場
眠雨うき高2

 かつての社会では、人は自らの需要を自らが供給して生活を成り立たせていた。生産は労働であり、労働は人生であった。ところが近年、資本主
義が人間の経済に顔を出してくるに従って、人生は次第に消費によって構成されるものへと変化してきた。人々は手段としての労働を選び、賃金を 得てそれを消費し、また賃金を得て消費するといった消費の無限構造の中に取り込まれている。そこにおいてかつての生活様式に内在した自然の豊 かさは薄れ、豊かさを求めるため豊かさを犠牲にするといった矛盾さえ孕んでいる。  

 こうした社会が構成されてきた原因とは何だろうか。第一にあげられるのは、人間の技術や金銭を生み出すシステムの進歩が、精神の進歩の速度
を上回ってしまったことがあげられるだろう。理由なく人々は生産を捨てたわけではない。なにか人生の負担を軽くするもの、恐らくは快楽と呼ば れる種類のものへの需要は常にあった。資本主義への移行によってその提供される快楽は量的にも質的にも進歩を見た。金があれば多量を所有する ことができる。その誘惑。発展した文明がもたらす快楽、快楽を得るために必要な金銭、金銭を得るために必要な労働。資本主義はこうした経済の 循環を前提にしており、前提であるが故にこの循環は崩し難かった。自らの欲求のために人は利己的になった。かつては道徳の面から眉をひそめら れたようなことさえ、一旦禁を破ってしまえば道徳の持つ倫理的な規制力はあっという間に弱体化した。神様がなんだ。生きているが故に享受でき るこの快楽を神様が与えてくれるのか? 人々がそう思いはじめてしまったとき、精神が物質に敗北を喫したとき、人々をつなぎとめていた止め金 が外れた。消費は必然となった。資本主義は抜け出せないシステムであった。かくして人々はその循環の中に身を置き、消費の生涯を送りながら、 時にかつての豊かさを夢想するのである。それを奪ったシステムの中に。  

 またもうひとつの原因は、発展途上の資本主義が少なからず持っていた侵略性にあるだろう。自国の内側だけでは飽き足らなくなった経済の肥大
化は、消費の、また生産の、つまりはひとつの経済が循環する新たな舞台として他国の領土を求めた。いわゆる植民地政策である。かくして資本主 義は侵略戦争を彷彿とさせる膨大な広がりを見せ、世界各国にその波をもたらした。フォレスト・カーターの著書の中でネイティブ・アメリカンの 老人は語る。「私は鉱山で鉱石を積み込む仕事をしていた。そこでは金と売女とウィスキーのために誰もが昼も夜も働きつづけた。そして誰もが嘘 と横領、そんなことばかりやっていた。」ネイティブ・アメリカンは自然を崇拝しその調和の中で生きてきた人々として知られている。その老人で さえ、アメリカ資本主義の占領政策の前に屈し、自嘲と自責を禁じ得ない被害者となっている。発展した経済は力をもっていた。そして悪いことに 侵略性も持ち合わせていた。結果として古き良き、そして儲からない生産の形態は駆逐されていったのである。  

 我々は消費の中に生きている。そのシステムは最早生まれたときからの必然であり、変化は難しい。我々に求められているのはそのシステムに溺
れないこと。守るべき倫理や尊厳とは何かを知っていること。そのためにいざというときにはシステムを犠牲にすることさえ厭わないこと。生産と 生活の結びついていた時代の人間を忘れないことではないだろうか。精神の豊かさは構造が変化したときに失われるのではない。人間がその必要の 根元的な理由を見なくなったときに失われるのである。  

 
                                                 
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