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永遠に新しくあり続けるものを古典という アジサイの広場
クラシックしふ中2 流行を左右するような作品は、人々におおく読まれるが、やがて、その熱が冷めた時、その価値の大半を失ってしまう。昔、うちの小学校で、エル マーの冒険という本が流行っていた。僕は、一度読んで見て、たいして楽しいと思わなかったのだが、図書室に行くと、かならずその本が無くなっ ていたことを覚えている。それは僕が小学3年生の頃だった。  

 だが、1年、2年と時がたつうちに、その人気は衰え、僕が小学5年生の時には、本棚にそのシリーズがどっさりと残るようになった。
 

 流行という荒川は、流れにいろいろな漂流物を乗せてこうこうと流れ行く。その漂流物を、人々は、わくわくしながら眺めているのだ。
 

 だが、荒川が新しいものを岸からさらい、古い漂流物を岸へと押し出した時、誰一人その今の今まで漂流していたものを見ようとはしない。
 

 古典とは?それは、荒川に逆らいながら、くるくると回る葉っぱである。
 

 いつまでたっても回り続け、いつまでたっても人々を惹きつけ続ける、一枚の葉っぱである。
 

 流行に乗る本は、大抵、読みやすく、おもしろく、感情移入がしやすい。この3拍子がそろっていることが多い。それに対し、古典は堅苦しく、
読みにくく、おもしろくもなんともない、過去の遺物だ、と思われているのではなかろうか?  

 僕が、初めて読んだ日本の古典は、6年生の3学期、クリスマスプレゼントとして父が買ってくれた有島武郎の「一房の葡萄」だった。
 

 難しい本は、敬遠してすごしてきたが、それはたった200ページ前後しかなく、簡単に読めそうだったので、チャレンジしてみることにした。
 

 大人が、純粋な子供の心を映し出すというのは、簡単なことなのだろうか?
 

 子供の心の動きを題材にした児童小説ならいくらか読んだ。だが、これほど共感でき、純真な子供の心を描写している小説は始めてだった。 こ
のとき以来から、いろいろな古典に手を出してみた。あまりにも難しくて途中で挫折したものもあるし、作者の意図も分からず読み終えてしまうこ ともかなり多かった。だが、古典に手を出してみて、それぞれに人を惹きつけるなにかがあるという事実の断片をすくい上げた気がした。 古典と は決して「古いもの」という意味ではない。永遠に新しいものを古典という。  

  
                                   
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