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| 草 |
| アジサイ | の | 峰 | の広場
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| UZI.SMG | / | そお | 高2 |
草、と聞くと、一本一本というよりは、群がっているいわゆる草むらを連想する。そして、僕が住んでいるところが都会であるからか、そのイメ |
ージは、人工的に囲われた場所に、人工的に植えられ、人工的に成長させられたものである。僕と同様な環境で育った人たちが、緑色で有機的なそ |
の草むらを、一見して安易に「自然」と呼んでしまうのは、単に自分たちが住んでいる空間の無機質性との対比から起こっている錯覚だと思う。そ |
してまた、自然と触れ合おうなどという呼びかけには、あるからくりがあって、そこに僕らの「自然」に対する認識の甘さがあると思う。ここで僕 |
が言いたいのは、僕らが求めている「自然」とは、「自然」ではない、ということだ。そのことを説明したい。(自然:人為の加わっていないもの |
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よくある日常の光景だが、ちょっと郊外に出かけて「あっ、緑が多いね。自然はいいよね。」という会話。もしくは、連休に信州旅行などに行っ |
て、「日本にもこんなに自然があるんだな。東京にも自然があったほうがいいよ。」という自然羨望のまなざし。しかし、こういう人達は皆都会人 |
であり、彼らの感想の前提には、くつろぎながら快適な旅館にいて、「すぐに便利で不自由ない一方で少し環境の悪い都会の生活に戻るのだから、 |
今のうちに良い空気を堪能しておこう」、という条件がある。そこには、激しい気候の変化や、雑多な害虫やら病原体、などといった自然の猛威な |
どは微塵もなく、むしろ都会のオフィスビルにある、ちょっと気の利いた部屋に入った感覚なのだ。このように自然を、あたかも一部分を切り抜い |
て風景画にしたかのような感覚で捕らえているのが都会人なのだ。 |
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また、そんなようだから、ちょっとその辺に緑があると和むかな、という気分で植え込みの草むらや街路樹は存在している。そこにあるのは自然 |
ではなく、人間の都合の良いように作られた、自然風人造物だ。ようするに風景画の一種。いわゆる庭園を想起すればわかりやすい。主の感性によ |
って手入れされた空間。そういった空間は、動植物園だとか自然保護区域のようなところも、最たるものとして該当する。自然保護といっても所詮 |
、人間にとって必要、もしくは同情心やら後ろめたさ、という価値観で判断され、大きな虫かごにでも入れているに過ぎない。なにしろ本当に自然 |
を守るならば、その対立項である人間は滅びるしかないのだから。当然、そういうことを理解した上であえて、自然保護を訴えているのだろうが、 |
その言葉は軽率に乱発すべきではないだろう。 |
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このように、僕らが日常口ずさんでいる「自然」とは、実に人為的空間であるかがわかる。しかし、「自然」はそのイメージとは大きく異なり、 |
脅威、猛威であることを忘れてはならない。 |
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