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考えること アジサイの広場
あおき高3 ☆これは課題文がついてます。長い文章ですので、問題は郵便で送ろうと思います。  

 
 

 『天は人の上に人は造らず、人の下に人を造らず』そう言って幅広い人気を集め、今もなお堂々たる態度で紙幣に乗っている。彼こそが福沢諭吉
である。  

 彼は確かに良いことを言った。そしてその言葉と共に良い人として受け入れられ、死んだ後も生き残ることに成功したのである。しかし、彼の実
生活にしてみれば、彼自身の吐いた言葉こそが偽言であった。というのも、彼は弟子に挨拶をするのに土下座させ、自分のことを“師”と呼ばせて いたのである。そこから見ると、彼の主著の中での“私はこじきに与えてやった”という平等な立場から見ると酷く不自然に感じられる言葉を使っ たことにも頷ける。  

 このことからも、考えていることとその人の行動は必ずしも一致するとは限らないことが分かる。筆者の言うとおり、我々は一つづつの行動を起
こすのに何も考えてはいない。ただ、他人に自分を理解して欲しい、と思うときに初めて人は考えるのだと思う。そしてそれを言葉にするときに多 少理想化してしまうのである。  

 先日、学校からの帰り道で沈黙に耐えかねた私は話をきりだした。家での事、学校の事。話題は何でもよかった。ただ、話をしたかったのである
。そして、数分も話していると、友達が突然声を発した。  

 「えっ、嘘!そうなの?」
 

 私はその突然の声に驚き、なんとなく話していた内容を思い出しながらその内容こそが本当かどうかも分からない噂だったことに気づいた。そこ
で初めて、今まで訳知り顔で語っていた自分に気がつき、その友達の反応にどう答えるか考え始めたのである。そして、友達がぶつぶつと言いなが らも、納得しているのを見て、妙な安心感に捕われたのであった。  

 このようなことは往々にしてある。つまり、人から指摘されたり、言われない限り、習慣やなんとなくで暮らしている本人は気づかないのである
。しかし、その結果それが正しかったかどうかを決めるのも周囲の人である。周囲の意見は人の考えの指標となるばかりか、重大な決定権を持って いるのである。福沢諭吉は成功した。周囲の指示を得たからである。そして、私も一つの話題について成功したのだ。いや、成功している。イエス が各々の前に現れない限り、我々は成功者となりえるのだ。  

 
                                       
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