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総合的知覚と屁理屈的思考
イチゴの広場
ペー吉うき中3
 
 ハバチの研究を行ったことがある。最初は摂氏二五度で飼いはじめたが、数
日で全滅した。翌年に一六度で再び飼育したが、結果はほとんど変わらなかっ
た。三回目の挑戦では、ふと思いついたひらめきにより、飼育温度を高温・低
温と振れさせた。だが、結果を発表する時には「ふと思いついた」ではなく、
「論理的」推理を以って、「科学的」な対面を持たなくてはならない。科学や
技術は、ひらめきであり、とても人間的なものなのだ。
 
 私は、ひらめき、というか直感によって救われた経験が何度かある。頭で考
えたのでなく、本当に直感で助かったのだ。昔、友人と遊んでいた時の事だ。
互いにふざけて、友人はエアガンを構えてつめより、私は両手をあげて「降伏
」の意をしめしていた。だが、次の瞬間、友人の指が誤って引き金を引いてし
まったのだ。弾丸は、少し前まで私の頭のあったところをかすめて壁にぶつか
った(屋内だったのだ)。当然、至近距離のエアガンの弾など頭で考えて避けら
れるものでもないが、私は友人が引き金を引いてしまった数瞬前、妙な感覚を
覚え、とっさに頭を横にそらしていた。互いに、まさか弾が出るとは少しも思
っていない状況で、しかも至近距離のエアガンを避けた。直感というか霊感と
いうか、その感覚にまさに救われた。
 
 ものの本によれば、人間の持つ直感や第六感というのは、微弱な感覚の総合
的なものだという。我々には視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・内覚・追憶とい
った知覚能力が備わっている。例えば、人間が「知覚した」と認識できる情報
量を十としよう。視覚に十を満たす情報量による刺激があれば、「物が見えた
」と感じるわけだ。ところが、いわゆる五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)
に、それぞれ二ずつの刺激があったとしよう。この場合、一つ一つの感覚では
何も知覚できないが、それぞれに与えられた合計すると十になり、知覚できる
条件を満たす。この時、我々は「ひどく曖昧だが、何かがおかしい」という感
覚を覚える。これが直感であるのだそうだ。一度も歩いていない道を直感で歩
けるのは、都市の建物配置のパターンや、非常に微弱なコンクリートの匂いな
どの、様々な感覚が統合されているからであろう。
 
 直感というと、アテにならないもの、非論理的なものという印象があるが、
意外と馬鹿にはできないものなのだ。自らが知覚した情報の総合結果なのだか
ら、その正解率は高い。「目の前に何があるか」というのは、目の見える人間
にとって確かな情報であるのと同様に、「そこの角になんかいるって絶対」と
いうのも、また確かな情報なのだ。思考ばかりでなく、一瞬のひらめきも大切
にしなくてはならない。ふと思いついた発想が、実は最良かもしれないのだか
ら。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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