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論理よりひらめき
イチゴの広場
太公望うの中3
 「科学における発想と論理」という話になると、いつも昔やったハバチの研
究のことを思い出す。日本にも同じ種とされているマツノキハバチが、高山の
ハイマツ帯にいるという。そこで中央アルプスに登り、高度二千五百メートル
付近に生えているハイマツにいる幼虫を捕まえて来て、大学の研究室で飼育実
験をおこなった。一回目、二回目は、失敗したが三回目は、ふとした思い付き
で実験は成功した。しかし、学会で実験結果を報告するわけだが「思い付き」
という言葉を言ってはいけない。データに基づいた「論理的」推理を展開する
形をとることによって、この研究も私自身も、「科学的」な体面を保つことに
なった。コンピューターによるデータの処理・解析が普通になった今、振り子
はまた以前の状態に戻る可能性がある。今大切なのは、科学も技術も、普通思
われているのとは異なって、ずっと人間的なものなのだということを、深刻に
意識することである。
 
 今の世の中は、すべといっていいほどコンピューターのデータで成り立って
いる。だから人間は、数字でないと物事を信用しない。しかし、データでは、
見えない物もある。例えばダイオキシンの話では、所沢の野菜のことで問題に
なった。記者会見でデータを公表していたが、問題は、数字ではなくそれによ
ってどのようになるかである。データだけで物事を解釈するのは良くないので
はないかと思う
 
 昔話で「花咲じいさん」「こぶとりじいさん」というはなしがある。二つと
も欲張りなじいさんがでてくる。そして、良いじいさんがお金を手に入れると
欲張りじいさんが外見だけ真似をしてお金をとろうとするが失敗する。中身が
違ったからである。つまり外見だけがすべてではなく実はその内側に見えない
本当のきっかけがあるのである。
 
 データ重視の世界ではなく「ひらめき」「直感」などを必要とするべきであ
る。きっかけというもので多くの物が発見される。しかし、今の社会は、人間
的な考えを持とうとしない。非常に残念なことである。確かにデータというも
のは議論に決着をつける時に必要ではあるが、頼りすぎは良くない。「知恵が
はしごを作ったのではなく、二階にあがりたいという熱意がはしごを作ったの
だ。」ということばもあるように、内側にある気持ちが必要なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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