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ロボットは
アジサイの広場
武照あよ高2
 初めはボクだって角があって白かったのに、使われるにつれ、小さく汚くな
ってしまった。そのうち新しい奴がきてボクはごみ箱にすてられるのだ。
 
 正確には覚えていないのだが、これは「消しゴムのかなしみ」という詩であ
る。題名だけ聞けば何を言っているのか分からないが詩を読むと「消しゴムの
かなしみ」が妙に真実味をあびてきて、この消しゴムをもっと使ってやるかと
いう気分にさせられる。このように自分の心を物に移入してやることによって
これまで気づかなかったあたらしい世界が広がることは多い。我々はもっと日
常的に対象の目線で物事を考えるくせをつけることが大切ではなかろうか。
 
 ではどうすればよいのであろうか。それは物の価値を自分とその物との関わ
りで理解することではなかろうか。私はよく友達と化石採集に出かける。ハン
マーで石を叩き割り、その割れた面に化石がのぞいたとき私は今でも感動をお
ぼえる。その化石が何万年もの間私にあうために待っていたような気がしてく
るのである。売ろうと思えば一円もつかないであろうが私との関わりにおいて
はずっと価値あるものなのだ。「自分」も「モノ」も単独で存在しているわけ
ではない。自分とモノとの関わりでものの存在を認めていくことが対象の目線
で考えていく第一歩であろう。アルネ・ネスの提唱した、全ての物は相互に関
連して自己開花する本質的価値を持っているとする「ディープ・エコロジー」
はその典型であるように思われる。
 
 しかし現実は物を物としてみる方向に動いてきた。かなり昔のことになるが
ロシアの「自然改良計画」などそれを良く物が足っている。人間の力で自然を
より良い物にするということである。もっと身近な所で言えば、店では一匹一
匹きれいにパックされた魚が並んでいる。それがあまりにも具体的な「物」で
あることに妙な気持ちになったものである。なにも痛いだろうから食べるのを
やめなさいと言っているのではない。むしろ人間はそのような関連をもって生
きていると言うことである。現代は物から「命臭さ」を消してきた時代なので
ある。
 
 たしかに自分の心を物に移入すると言うことを徹底させると、宗教的な偶像
崇拝を生むことになるかもしれない。しかし物の目線に「主体」と言うものが
あるかぎりではそのようなことはないであろう。我々は小説を読みながら人間
以外の動物になることもできる。そして我々とは違う目線で大冒険をすること
もできるのである。心の隅では嘘であると知っていながらその物の立場になっ
てみる。それがとても重要なことではなかろうか。物の目線で物事を見れない
人間が本当の意味で思いやりを持つことができるかどうかはなはだ疑問である
。「ぞうさん」などの童謡を作った作曲家の歌詞につぎのようなものがある。
作られたくもないのに作られた物たちに囲まれて人は生きている。そしていつ
のまにかみんなが人にそっぽを向いている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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