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 普段私たちは、コインを丸いものと見なしている。それはなぜだろう。確か
にコインは上から見れば円形だが、水平方向から見れば、明らかに薄い長方形
に見えるはずだ。そう聞けば誰も否定しない。その通りだ、という。ではなぜ
「コインは丸い」という感覚におちいるのだろう。それは、私たちが、いつも
ある視点からある光景を見るからである。自然な状態のものを、自然な角度か
ら見てそのすべてを見たような気になっているのだ。しかし、そういう事――
―自分の認識が有限で一面的だという事―――をいつも承知している人は、や
がて、他の面に気づいていく。
 
 文学作品などにおいても、同じ一つの事実を、きわめて異なることばで言い
表すことがある。視点が違う。これらは、ヨーロッパに古くから伝えられた「
レトリック」感覚に相似している。
 
 さらに、人間はそれぞれ違う考えを持っている。その中で、自分だけが正し
い、と信じきっていては、自分とは異なる立場から物事を見る事ができない。
肝心なのは、別の立場にたって、どのように物が見えるかを思い描く能力であ
る。
 
 このように考えてみると、レトリック感覚は、発見的な認識には欠く事がで
きない上に、人をできるだけよく理解するためにこそ必要なのだ。新しい視野
や相互理解のためにも、今日ほどこれが必要な時はなかったと思われる。
 
 私も、一面的に物を見ている。故に、少々無鉄砲である。そのせいで昔私は
、かなり冷や汗ものの体験をした。それはある日の休み時間。いつものように
チャイムと共にボールを持って外へと駆け出した。そしてしばらく遊んでいる
と、職員室側の少なくとも50メートルは離れていた所から、野球のボールが転
がってきた。そして、そのボールを、力いっぱい投げた。外れた時の事など考
えもせずに。そして、その野球ボールは、キャッチボールをしていた少年達の
はるか上を行き、職員室の窓………の約2.3センチ上に当たった。あの時私は
、ボールが転がってきた→その方向になげ返す、という、ほかの可能性を無視
した行動をとった。もっとちゃんと考え、他の可能性もちゃんと頭に入れて、
物事を多面的に見る、ということを多少実践するようになったのは、確かその
頃からだった。しかし、そのときは、本っっっっっ当に冷や汗をかきながら、
「ひゃ~~あせあせ」という感じだった。(なんのこっちゃ)
 
 しかし、だからといって、一面的→悪い結果とも言いがたい。一面的、とい
うのものには、「行動力」という欠かせないものがあるからだ。例えば、もし
も本能寺の変の時、明智光秀が、「信長様を殺したら、きっと誰かが僕ちゃん
に仕返しにきちゃって、それからそれから……」とあれこれ考えて、結局信長
を倒さなかったら、秀吉は一生信長の家来で、家康も設永の家来になってしま
って、江戸時代がこない間にペリーがきて、それに怒った信長の子孫がペリー
艦隊をやっつけちゃって、そのままアジアを制圧して、みんなちょんまげのま
まで、第一次産業が全国のNo.1になっているかもしれない。このように、常
に多面的な考えを持っていると、こういう事にも成りかねない、ということで
ある。
 
 一面的考えも多面的考えは、どちらも一長一短だが、理想的に良い長所があ
るのは、多面的考えになる。みなが多面的な考えをいい方に使い、新たな発見
がいつでも出るようにする事である。しかし、両方の考え方を臨機応変に使う
事が現実的に考えると一番良い。こう考えると、どちらの考えも、必ずしも「
正しい」とは言えないのである。しかし、時と場合によってこっちが適してい
る、ということはできる。「悪い事そのものがあるのではない。時と場合によ
って悪い事があるのである。」ということばの示す通りである。私の考えでは
、多面的考えで物事の糸口を見つけ、一面的考えでその謎を解いていく、とい
うのがいいと思う。ちょうど、複雑に絡まった糸をほどくように、「謎」とい
う複雑に入り組んでいる多くの糸を、一本一本丁寧にほどいていこうではない
か。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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