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ふつう、死は
アジサイの広場
T.Oいう高3
 近年、脳死を人の死と認めるかという議論が行われている。脳死状態の身体
はテクノロジーの介入によって生かしておくことは出来る、生を手放しながら
なおかつ死を中断された、いわば「中間的身体」とされる。そして、その「中
間的身体」から生きている臓器を、必要としている患者に移植することによっ
て脳死身体の「資材」化への道が開け、役に立たない自明の死から「役に立つ
」死へと転化する。テクノロジーの発展は私たちに多くの恩恵をもたらしてき
たが、その科学的合理主義がゆきすぎて本来の「人間らしさ」を失わせている
ことも事実である。
 
 脳死者の臓器を患者へ移植手術し成功したという報道がつい先ごろあったが
、これは医学的そして科学的にみて飛躍的な進歩であるとみられる。なかば死
に委ねられた臓器が生き長らえる道は、他社の身体に引き取られる以外にない
のだが、今まではそれすらできなかったのだからテクノロジーが人間の可能性
を広げたといえるのだ。しかし、自分の体の中に他人の臓器が埋まっていたら
、一種の人造人間のような妙な気分に陥らないだろうかとつい思ってしまう。
 
 テクノロジーの偉業は認めるが、本来ならそれを変えてゆく立場にあるはず
の人間が逆にその変化に引きずり込まれていないだろうか。死という決して避
けられないものを「資材」化し、果てはそれを役に立つ立たないと規定してし
まうというのは実に奇妙なことである。例えば、難病にかかった人がいて、も
しその人が「下手に治療して生き延びるより限られた時間を生きたい」と言っ
たとしても、その人の死を役に立つ立たないの判断にかけてよいものだろうか
。私は少なくともその人の生き方を「人間らしさ」を貫き通したと見て、その
ような判断をするしないということとは別であると思いたい。
 
 人間、特に現代を生きる私たちは科学的合理主義の下に生きていることは確
かである。しかし、そのような生活の中で個々が「自分らしさ」を無くして人
間であるのに、半分機械化してしまっているのも事実である。脳死を自然に訪
れる死と同等ではなく、人間の利益になるならないの判断の材料にしてしまっ
ているのもこのような事実と関係しているのではないだろうか。そうすると、
テクノロジーが私たちにもたらしたものは「非人間的」な可能性であり、その
下に生きている私たち自体が人間にあらずということになる。しかし、その状
況の中で「人間らしさ」の意味や存在を見直してゆくことこそ人として基本的
なことであり、また忘れかけていたことではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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