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「なにはともあれ」を読んで
アジサイの広場
○○○○あう大2
 現在、クラシックは衰退せず、むしろ新しい企業戦略となる可能性を持つよ
うになった。しかし曲全体が一つになっている曲を、切り刻んだコマーシャル
によって、新鮮なものとして受け止められている。クラシック音楽は現象的な
快楽を越えた「作品」という包括的なものであるが、部分的なサンプルは憧憬
の対象になりつつある。このことは、音楽の受け止め方が、音楽を有機的統一
体として捉えない方向へ変容したことを示す。
 
 本文で述べられているように、かつてクラシックは、そのジャンルを問わず
、その作品の背後にその人の人生観や世界観があり、聴く側の人々もそれを期
待していた。しかし現在では、とりわけ音楽は本文の言葉を引用すれば、音楽
は「旋律やリズムや音楽と言った現象的な快楽」として捉えられているようで
ある。私自身も、まれにクラシック音楽を聴くが、「いい音だ」と感じること
はあっても、背景にある作曲家の人生観や世界観について考えたことはない。
このような快楽として音楽を捉える風潮や音楽を批判する人は少なくない。中
には作曲家を名指しで批判するひともいる。
 
 では、快楽として音楽を捉える風潮、作曲家が、本来ひとつの統一体である
べき音楽をバラバラにしてしまった張本人なのであろうか。むしろ、我々を支
配していた思想自体が崩壊してしまったためとは考えられないであろうか。
 
 人々の機軸となるべき思想がないと言える今の時代は、新しい価値観が生ま
れるかもしれないと言う可能性を持っているが、その一方で、漠然とした不安
が我々を支配している。オウム真理教が関係する一連の事件や、その他のカル
ト宗教の問題、狂暴化する犯罪などの不可解なことが増えてきている。現代音
楽や美術もどこか不安定で、鑑賞するほうが不安になってしまう作品が多い。
 
 確かに、「夜明け前が最も暗い。」と言うように、新しい軸が生まれる直前
の時が現在なのかもしれない。しかし、遺伝子組替え、クローン技術、臓器移
植手術など、人間が今まで全く立ち入ることがなかった領域に、侵入できるよ
うになり、我々の価値観が根本的に変わってしまう可能性も出てきた。本文に
述べられているような音楽の捉え方の変容には、その何らかの不安があるので
はないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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