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何はともあれ
アジサイの広場
T.Oいう高3
 私たちは、コマーシャルで流れる音楽というものはいつのまにか耳にやきつ
いていることが多く、よく流れる部分、すなわちサビといわれる部分を聴くと
何の曲であるかがすぐに思いだせる。こういった曲が流行するのは、一曲を有
機的統一体として把握する構造的な聴き方が出来ない人の心の隙間に、断片的
な音楽が入り込んだからかもしれない。クラシックのような曲全体に意味があ
るものを切り刻んで差し出すことは、新鮮さを持つ反面、聴く人自身が音の構
造を能動的に読み取ることをさせなくする。
 
 一般的に、クラシック音楽は「難しい」とか「一曲が長いので途中で飽きて
しまう」といった印象を持たれがちである。最初から最後まで聴きとおし、そ
の曲が持つ音楽的理念を理解するなどということよりも、短いコマーシャル音
楽が与える個的で快楽的な現象の方を楽しみたいという人が圧倒的多数である
が、このような人が増えきった現代がある一つの大規模な思想に基づいた人々
が多かった中世や近世と違い、「非思想的な時代」と評されても仕方がないの
である。
 
 表に現れている時間が短いということは、同時に強烈な印象を与えることで
もある。日常でも不規則に流れるコマーシャルのような、突然目の前に起こっ
た出来事というものは、長い時間が経っても意外に覚えているものである。ま
た、時間が短いだけに創意工夫が必要になり、ありきたりのものから逸脱して
あるテーマに束縛されない自由な発想へと転換しようとする。そこには「気軽
さ」があり接しやすいのだが、根底にあるものがはっきりせず、移り変わりが
激しいといった短所も持ちあわせており、まさしく現代社会を象徴している。
 
 現代は、様々な機器の圧倒的な便利さと引き換えに、あるひとつのものを「
傾聴」したり「注視」するといった面倒な手続きを段々と失わせていった。昔
のような、大思想の中に自分なりの世界観や人生観を見出すといった生き方が
忘れ去られた時代だからこそ、生活様式そのものを改めることは無理にしても
細部にばかりこだわってどうのこうの言うのではなく、包括的にものごとをみ
つめて全体的な構造を自分の中で消化し、大きなテーマを見つけ出すというよ
うな生き方を一度振り返ってみるべきではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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