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日本とその受容形態
イチゴの広場
アツコとれ大1
6月2週 生徒コード とれ 土曜 中根先生
 
 日本とその受容形態           矢崎温子
 
 科学技術はヨーロッパに生まれ、全地球に広がり、ヨーロッパでは文化と対
立することなく受け入れられた。しかし、日本では事情は異なり、それは画期
的なものとして受け止められ、文化と同心円をなすことはなかった。つまり、
技術という殻を受け入れても、精神的、文化的背景という中味までは浸透しな
かったということである。
 
 我々日本人はつい何でも形から入ってしまい、しばしばその物の本意や精神
、文化を知らずにいる。例えば、我々はブランドを非常に気にする。その物が
自分に合うかどうかではなく、又、その物自体の良さを見極めるのでもなく、
そのブランドの物を持っているだけで「すごい」「格好良い」と判断しがちだ
。ただ高額のものを買うのではなく、自分や年齢に見合った服装とスタイルを
求めればいいと思う。見掛け倒しで、その人に人間としての洗練さ、素晴らし
さといった中味がなければ双方魅力のない物になってしまう。大切なのは格好
良い外見ではなく、その人自身の人間性である。
 
 キリスト教の受容も例として挙げられるだろう。欧米においてキリスト教や
教会は、キリストと人々との関係にとどまらず、地域の中心的存在として、人
々の交わりやその媒体としての役割を担ってきた。それは一つの社会でもあり
、子供達は学校と教会という二つの世界の中で成長していく。キリスト教や教
会が人と人をつなげる場となっているのである。一方日本では、キリスト教が
外から入ってきたものであり、又その浸透度も低かったという点において欧米
と違うこともあるのだろうが、人々が交わるよりも、一人一人と神との繋がり
が重視されているように思う。しかしこれは一つの受容の仕方であって、決し
て悪いことではない。なぜなら、我々日本にも独自の文化的、歴史的背景があ
るからだ。
 
 確かに、科学技術のみをすばやくとり入れ、戦後の経済成長につなげた日本
の柔軟さは誇れることだ。しかし、これからは外見や言葉、周囲にとらわれる
ことなく、日本のこれまでを本当に大切にしながら、日本独自の道を切り開い
ていくことが私達にとって必要  ではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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