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「落ちてきたら」を読んで
イチゴの広場
太一あうけ中1
 
   「落ちて来たら」を読んで            宇佐美太一
 
 「落ちて来たら」の詩のいのちは、 美しい願い事のように というすばら
しい「比喩」にあると言えるでしょう。この詩を読むと、いつも光りさす空を
見上げていよう、紙風船が落ちてくるのに目をとめるより、何度も打ち上げる
そのことに生きる証を見つけよう、というような祈りににた詩の心が伝わって
きて、励ましさえ感じます。
 
 二つの異なるものを結びつける比喩は物事をわかりやすくさせる。その比喩
を日常の会話でも効果的に使うと、表現が生きてきます。「赤ん坊が激しく泣
く」というより「赤ん坊が火がついたように泣く」といった方が印象の強い表
現になります。また、比喩は古来重要な働きをしてきました。
 
 僕は、小学生のころ受験対策のため、家庭教師についてもらっていた。その
ときの先生は大学生でどこの家庭教師センターにもいないで、ただうちの近く
に住んでいるので家庭教師になってもらっただけだ。その先生は、太っていて
河西先生という。
 
 ある夏の日のことだった。いつものように今日は先生が来る夜で先生が来た
。そして近々僕たちは旅行に行くので、休み時間はその話で盛り上がった。そ
して勉強も終わり、先生が帰るときに、先生に、
 
 「僕、来週旅行に行くから来週休みにして。」 
 
 「わかった。」
 
 と話し、先生は帰っていった。
 
 そして1週間後、僕たちが旅行から帰ってきたら、隣の祖母から連絡があっ
た。
 
 「水曜日に、お相撲さんみたいな人が来たから、太一のところは旅行に行っ
ているよといっておいたけど」といわれて僕はすぐに「河西先生間違って来た
な」とすぐにわかった。 「短いスピーチが長いスピーチよりも難しいのは、
言い直しが聞かないからである」という名言があるが、比喩はその短いスピー
チの方だと僕は思う。間違うと、うまく取れないが、合っていると、人を的確
に表現できるからだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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