要するに、一九八〇年代に |
アジサイ | の | 峰 | の広場 |
武照 | / | あよ | 高2 |
淡い水色の空に真っ赤な地面。そこに一人の男(?)がうずくまっている。 |
頭からは煙突が生え、煙が出ている。その恐ろしげに開いた口は、最後の小さ |
な赤い花を今にも食べようとしている。 |
これは私の好きな画家、ジャン・ミシェル・フォロンの作品「飢え」である |
。私がこの画家をひいきする理由の一つとして、その単純な構図と淡い色があ |
る。彼の絵からは余分なものはすべて捨て去られ、そこに練り込まれた思想が |
表現されている。絵画の良さは決して絵の具の量でも構図の複雑さでもないと |
いうことをよく表していると思うのである。 |
絵の好みは人それぞれであろうが、世の中は量よりも質が重視される時代が |
すでに来つつあるように思われる。しかし我々の意識は必ずしもその変化に追 |
いついてはいない。社会のいたる所に質より量であった時代の名残が見られる |
であろう。その中で私がもっとも重要であると思われるものに「時間」の概念 |
がある。選挙の時になるとよく聞く事であるが「現在の子供達は受験戦争によ |
って発現の可能性が失われています。わが党は学校の休暇を増やし、ゆとり教 |
育を目指します。」これはとても聞こえのよい言葉であるが、大きな誤解を含 |
んでいるであろう。筆や絵の具や紙を大量に与えられることは、その人が画家 |
になることと同値ではない。時間を与えれば、それだけ自由な発現が出来ると |
いうのは正しくないであろう。量よりも質を重視した「時間」の概念を持つ事 |
が必要である。 |
それには我々の創造力に目を向ける事が必要である。我々は質を重視した時 |
間と聞くと、会社で往々にして見られるように、休む時間を後回しにして仕事 |
をすることと考えがちである。しかしそれが果たして本当の意味で「質」を重 |
視した時間であるかは疑問である。この間、新館を公開した国立科学博物館の |
展示を見てきたのだが、内容だけでなく展示方法が大きく変わった事に驚いた |
。標本の量が重要であった以前より、押したり、触ったり、聞いたりと見学者 |
が参加できる展示が大幅に増えた。これには博物館を作る側の工夫が不可欠で |
あったであろう。筆でも絵の具でもない、絵を描く人間の創造力が質を重視し |
た時間には必要である。 |
確かに「量」を重視した時間と言うものも必要であろう。現在の資本主義の |
発展では「より早く、より高品質なものを」という方向性が重要な役割を担っ |
ていることは確かである。、しかし質を重視した時間は人間の「豊かさ」の問 |
題に直結する問題であろう。 |
緑の山の頂上に一人の男が立っている。その男が見ているものは夕日である |
。その夕日は目の形をしてその男をじっと見下ろしている。 |
これはフォロンの「対話」である。「質」を重視した時間はこのように自ら |
との「対話」によって生み出された創造力にかかっているであろう。 |