すでにみたように |
アジサイ | の | 峰 | の広場 |
武照 | / | あよ | 高2 |
薄い水色の空に、夕日の赤がぼんやりと広がって行く。緑の山の頂上に一人 |
立つ男。その男は夕日を眺め、夕日は目となり男を見下ろす。 |
これは私の好きな画家、ジャン・ミシェル・フォロンの作品「対話」である |
。自分自身との対話とは、およそこの様に行われているのであろう。つまり見 |
たり話したりといった外界との関係によって作り上げた「もう一人の自分」と |
相互理解を図ることによって新たな自分自身を創り出すのである。あるアメリ |
カの大手広告会社の社長はアイデアを生み出す方法として「見ること」を挙げ |
ている。目に付いたものは広告であろうとなかろうとスクラップブックにいれ |
てとっておくのだそうだ。「見えること」と「見ること」の違いが創造性に大 |
きな差となるとその社長は言う。人間の創造活動とは「見えること」との対話 |
によって「見て」生ずるものなのである。少々使い古されたような言葉になる |
が、一般に日本人は創造性に乏しいと言われている。その状況が今になっても |
あまり変わらないのは誰もが感じる所であろう。その背景には日本における「 |
対話」のありようがが大きく絡んでいるはずである。 |
日本の創造性が乏しい理由として一つ「一問一答主義」が挙げられる。先に |
挙げた広告会社の社長が大学の講演で学生に出した問題に、四を二で割った答 |
えは?というものがあった。初め二という答えしか出てこなかった学生だが、 |
最後には英語のスペルを二つに分けたり、ローマ数字を上と下に分けたりと数 |
十通りの「正解」が出てきたという。さらに私が夏休みの研究として住民の食 |
品添加物に対する意識調査をした時の話しだが、アンケートに答えてもらった |
祖母に「私の答え全て正解だっただろ」と言われて答えに窮したことがあった |
。小学校の時から問いには一つの「正解」ということに慣らされていると、「 |
もう一人の自分」との対話ではなく社会規範や道徳といった「正解」に添う形 |
で自分が収まってしまうことが多いであろう。 |
戦後の日本ではそもそも「創造性」が必要とされてこなかったと言う点も忘 |
れてはならない。戦後遅れた産業化を取り戻すべく日本経済は成長していった |
が、それは欧米のレールの上を走れば良かった。はるかに完成された手本があ |
ったのだ。そこで必要とされたのは創造性よりも「正確さ」にあったと言って |
良いだろう。 |
確かに他国の「創造」したものを比較的抵抗なく取り入れ、改良していくこ |
とに長けているのは日本人の長所としてみとめるべきであろう。だが、それは |
「対話」をする必要がないという理由にはならないであろう。「こちら側の自 |
分」に合わせるのでもなく「もう一人の自分」に従うのでもない、このような |
相互理解は人間関係から環境問題まであらゆるレベルで必要となってくるはず |
である。 |
私がフォロンの絵が好きな理由の一つに、正解を教えてもらおうと見る回数 |
を増やしても何も分からないということがある。絵との対話によって自分の考 |
えを「創造」するのである。そしてまた、それはとても楽しい時間である。 |