無理について |
アジサイ | の | 峰 | の広場 |
武照 | / | あよ | 高2 |
「あ風呂のお湯を適当な温度にしてちょうだい」お母さんの声。子供は思う |
「フーン、適当で良いんだな」。 |
母親が後に風呂を見にいったときにはすでに手後れ。風呂はグツグツと煮え |
ていた。 |
現実問題としてこんなことはないだろうが、「適当」という言葉は難しい。 |
場面によって適切という意味にも、いい加減という意味にもなる。あれこれ考 |
えてみると「適当」という言葉には「自然の理に適った」という意味が根底に |
あるのだろう。ほっといてもそうなるのが「自然の理に適っている」というこ |
とであって、人間は無理をしたり努力をしたりしてそれ以上のものを目指すべ |
きだというところから「いい加減な」という意味は生まれたのだろう。そんな |
気がする。無理や努力は美徳というのが我々の社会である。だがこの美徳が暴 |
走した結果、ミヒャエル・エンデの指摘するように「ゼーレ(魂)を置いてき |
た」社会となっていることも考えねばならない。ここで我々は適当の網一つの |
意味「適当は適切なのだ」に目を向ける時期に来ているのではなかろうか。 |
ではなぜ無理をする社会が生まれてきたのであろうか。考えてみると良く分 |
からない。私の家では毎朝、テレビを点けている。ニュースを見るためではな |
い。画面の左上に映っている時間表示を見るためである。そしてバスの時間が |
近づくと食事中でもなんでも、大慌てで荷物を持って家を飛び出していくので |
ある。世の中から時計がなくなったらな、とも思う。社会は大混乱、経済はボ |
ロボロになるだろう。しかし、社会としてではなく動物として見たならば、ず |
っと時間に操られることによる無理は少なくなるだろう。無理する社会が生ま |
れたのは時計の発明のせいだというのは嘘だが、時計が現在の社会を成り立た |
せていると同時に、無理を生み出す主要な柱となっているのは事実であろう。 |
労働のための道具が未発達であるということもあるかも知れぬ。明治の紡績 |
機械はあくまでも人間の補助道具であった。そのために多くの女子工員が朝夜 |
交代で働いていたのである。現在では機械化が進み人間の負担はずっと減った |
。つまり人間の無理を機械の発達は大幅に補ったのである。これを私は未来へ |
の希望としたい。インターネットは情報の流れをよりすばやくするという意味 |
で大きな可能性を秘めているであろう。皆が自宅を職場にする時代が遠からず |
来るとの話もよく聞く。単純に考えて、情報の流れが速くなるということは、 |
これまで情報を得るために走り回っていた人の流れが緩やかになるということ |
なのである。 |
確かに。人間は無理をしたり努力したりすることが生きる意欲につながるこ |
とが良くある。そのために「適当な」生活は私の飼っている犬のようなだらだ |
らした生活になる傾向がある。だが極端な向上妄想は我々が人生自体を楽しむ |
ことを阻害する要因ともなる。特急列車より、各駅停車の方が景色は良く見え |
るのだ。 |
私が習っている、オペラ歌手でもある音楽教師は良く言う。「日本の演歌は |
無理をして声を出している。だから皆、声をつぶしてしまう。本当に良い声は |
、楽な良い姿勢で、遠くの人に声をかけるように歌うことだ。」音楽は良く分 |
からぬが、そういうものなのだろう。しかし「適当」が無理より「適切」であ |
るという一つの例となっているように思われるのである。私はカメも好きだが |
、人間味あふれるウサギも好きだ。そして「適当」な社会も。 |