先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
言語の軽視
イチゴの広場
○○○○うい中3
 日本のふつうの書きことばでは、漢字の地位が絶対的に高く、それに比べて
カタカナは、代用的な役割しか引き受けていない。もしその漢字の音
をカタカナで写し、それで押し通そうとするならば、思いもかけないほどの強
い抵抗に出会うであろう。この安心感
は、音はなぞりでしかないのに、漢字はオリジナルで不変だという安心感から
来ている。そうでない、文字だけの交流は、その文字エリートや、かれらの作
った制度によって管理されたものだからである。
 
 とにかくその人が自分を「カン
」だと名のれば、私はその人の名を「カン」さんとして心の中に刻みつけ、終
生変えることはないだろう。 文化の交流が一方的に統制されたものから相互
的で直接的なものへと移ると、ことばは紙から抜け出て音になる。
 
 私の身の回りにも漢字による安心からか、その台頭が見られる。一番良く目
にする漢字重視は社会の教科書だ。例えば「孫文」という語には、そんぶんと
いうふりがなが太字になりスンウェンという純粋な発音は、小さく書かれてい
ることが多い。だが逆にそのようなことをして、言語そのものを無視するよう
な行為を、止めようと見直されてきているのも事実だ。
 
 我々は古来から言葉には何か不思議な力があり、それを言霊などと称してき
たのにもかかわらず、その言葉の偉大さを最も知っている我々日本人自身が今
、言葉を軽視しているのだ。それには通信手段の発達等のさまざまな理由が考
えられる。だが言葉と共に生きてきた我々が言葉を軽視することは、言語文化
の崩壊といっても、過言ではないだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ホームページ