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認めろ
ウグイスの広場
信長あえほ小5
 食事というものは、何をいつ食事するか、それをどう食事するか、食事して
いけないものは何か、といったことについて、どの国の食事も、さまざまな制
限や規則が習慣として存在するその中でも何かを、食事してはいけないという
明示的な規則は、外国人にも比較的判りやすい。本当に分かりにくいのは、自
分の国の、食べ物の、食事全体における価値が、文化によって異なるときに、
難しいのである。
 
 僕の友達に中国から引っ越してきた子がいる。けれど最初のころはあまり話
せず腕力で話して喧嘩であいさつしていた。けれどそれは三年の始業式から二
週間くらいで先生が日中辞典を買った後は急激に減ったけれどもその後も引っ
越してきた、子とクラスのある人との喧嘩は続いた。まあそれはさて置いて1
番はてなマークが多く浮かんだ問題はクラスの、子が困るのではなく引っ越し
てきた子が困ることだ。カレーとサラダとご飯と牛乳という揚げぱん、と一位
、二位を争う献立だ問題はその中でも特に好かれている、給食のおばさんの切
り札、97年の横浜で言う佐々木を指す、カレールーであるなぜか習慣が無か
ったらしくてどうしても食べないのである。しかし良く見ると栄養分はカレー
でしか採り用の無い食事である。サラダだって栄養分はたかが知れている。そ
れなのに、なぜかたりているのである。誰でもそういう文化の違いは異やがる
物である。しかしたとえその文化が最悪で見苦しくて異臭が漂い三百億人の中
で二百九十九億九千九百九十九万九千九百九十九人の人がバツと言っても文化
を次ぐ一人の人が○と言ったらもしいなくても認めなければ三百億人の人のほ
とんどはというより二百九十九億九千九百九十九万九千九百九十九人の人は自
分のことを認めていないことになる一人の人を認められない人は、二百九十九
億九千九百九十九万九千九百九十九人の自分たちを認められないことになる。
もしも悔しがって二百九十九億九千九百九十九万九千九百九十九人の全員が僕
たち私たちの存在は何だと言ってきたとしてもそれは人に踏み潰されて死んで
いくアリたちの叫びよりは大きく馴れないのであろう。いやもしかしたら人を
認める重大さはもっと大きいような気もする。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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