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「さて、ありすぎるほど」を読んで
アジサイ の広場
○○○○ あう 大2
 より広い家に住みたいという欲望を、損をせずに出来れば得をしながら満た
すためには、所得のレベルの高い順にさらに広い住居に住み換えるべきである
。最後に残った空家は再開発され、新しいニーズが発生する。住宅のような高
い買い物の全体的なレベルアップは低所得の方から引き上げることは難しい。
したがって市場のメカニズムに任せ、人間の欲望に任せるべきであり、そのた
めには国民や政府は高所得者の邪魔はするべきではない。
 
 現在の教育において“わからない”という言葉を連発し脱落していく子供た
ちが続出しているとマスコミで報じられている。以前は「平等」や「ゆとり」
が強調され、とりわけ学校の授業について行けない生徒にあわせた教育が行わ
れていた。しかし、最近になって生徒の間にレベルのばらつきがあるにもかか
わらず一斉授業を行うと、授業についていけなくなった生徒たちのフォローが
できないのではないかと教育関係者から指摘されており、以前は平等に反する
ためタブー視されていた習熟度別授業が見直されている。弱者と強者の問題の
典型的例といえるのではないだろうか。
 
 経済政策においても、以前までは所得の水準が低い人をターゲットにした政
策が展開されてきた。ほとんどの国民が戦争で焼け出され所得が高い人の方が
珍しい時代には適切な政策だったと言える。一部の高所得者を優遇しても、一
人で消費できる量には限界があり、その一方で大多数の人は消費をしたくても
金がない状況を生み出すだけであり、これでは新しい需要を生み出すことはで
きない。従って福祉政策を重視することによって大多数の低所得者を支援する
ことは、需要創造においては有効であった。
 
 しかし経済が成長し、多くの国民の所得水準が向上した今日において、低所
得者を優先する政策は必ずしも有効ではないのではないだろうか。高所得者の
所得を制限し、低所得者を重視すると国民全体の生産意欲を低下させ、経済全
体が衰退してしまう可能性がある。
 
 教育の場においても同様のことが言え、個人のレベルを無視した画一的な教
育によりレベルの高い生徒は私立へ流れ、授業についていけない生徒は脱落し
ていく状況を生み出している。従ってあらゆる面で、上のレベルに立つ者の尊
重をタブー視しないことが求められている。
 
 確かに、高所得者の行動を制限しないということは、弱者の切り捨てにつな
がりかねない。しかし弱者切捨てを防ぐための方針が、いまあらゆる分野にお
いて金属疲労を起こしている。したがって弱者のために最低限の受け皿をつく
り、誰もが安心して競争に挑めるシステムを作ることが求められているのでは
ないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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