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勝ち負けと楽しさの関係
ウグイスの広場
高橋あたへ高3
 現在日本のスポーツは、勝ち負けが必要と考えられているものと、楽しめれ
ばよいそれで良いという考え方が、二大主流になっている。実際に、プロ野球
やJリーグと言ったプロスポーツは、勝ち負けが必要であると同時に、それを
追求するものであろう。これらのスポーツが、引き分けばかりでは、全くおも
しろくない。反対に、我々が小学校、中学校で行ってきたスポーツというのは
、基本的に楽しむことに重点が置かれ、あまり勝ち負けにはこだわらない姿勢
であった。
 
 だが実際には、小学校、中学校で行ってきたスポーツは楽しみを追求するも
のであるというのは、単なる名目に過ぎなかった。私は、スポーツ大会で、勝
ち負けを追求するあまり、相手のミスを責め、自分のミスを棚に上げ、結局は
単なる喧嘩で終わってしまうことをみるのが多かった。だから私は、中学校2
、3年生のスポーツ大会は、幽霊だった。本当に、つまらなかった。しかし、
これを変えるきっかけは、中学校三年での休み時間のサッカーだった。これは
非常に楽しかった。確かに勝ち負けを追求したものの、チームワークが非常に
よく、いやな思いをすることはなかった。勝ち負けと、楽しめるという考え方
は一見相反するもののようだが、本質的には同じである。つまり楽しみとは単
なる平等主義でなく、良いチームにおける競争である。
 
 ところで、このサッカーだが、中学校卒業とともに、卒業となってしまった
。私の通う高校では、休み時間に外で遊ぶことはできないのである。親が男の
子に期待する職業は、12.9%でスポーツ選手であるが、高校時代に外で遊ぶこ
となしに、果たしてスポーツの継続が可能だろうか。たぶん、無理ではないか
。こういった環境では、成人病予備軍が発生するのも、無理はない。このよう
な環境で、一生涯スポーツをしていくには、相当の努力が必要である。実際、
私は高校に入ってから、数キロ太った。
 
 それには、部活に入ればいいという意見もある。そのために部活はあるのだ
。しかし私はこれに反対したい。なぜなら、部活での環境は、前述したスポー
ツ大会と同じ環境である。そうでない部活もあるのだろうが、私が高校一年生
の夏休みまで所属していた部活のせいで、私は再びスポーツ恐怖とつまらなさ
を体験した。人間というものは、結果から事のよしあしを判断する生き物であ
る。そこで私ができることは、結果ではなく、その過程で楽しめたかというこ
とを、最大限自己評価することしかないのだ。こうすることによって、なんと
か自分の中だけでも、勝負と楽しさを両立させているのだ。ただ最後に付け加
えるとしたら、もう一度中三時代に戻ってサッカーがしたい。