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スポーツの勝ち負け
アジサイの広場
冨田あよ高1
 「体育」をする事などやめてしまえ、私はそう言いたいのだ。そもそも体育
と言うものは戦時中に作られた言葉で、飛び箱は戦闘中に重い荷物を背負って
すばやく動くために、鉄棒は銃を撃つ手の筋力を付けるために当時の教育に取
り入れられたものなのである。つまり「体育」は「軍で活躍するため」のもの
だったのである。戦後になって「体育」は「スポーツ」とも呼ばれるようにな
った。しかしサッカー・ワールド・カップに出場した日本選手の姿を見ている
と、変わったのは名前だけと言う気がしなくもないのである。彼らがしている
のは「勝って記録を作るため」の「体育」ではないのか。国の志を背負って戦
いに行く姿は戦時中の兵士にも重なる。
 
 私が学校の文化祭で地学部として研究発表をしていたとき、見学者の一人に
「君は古生物学を学んでどのような意味があると思っているのか」と聞かれて
面食らった事がある。私はこの時、有名な学者達は「子供達に夢を与えるため
」と答えていると断ったうえで、次のように答えた。「古生物学と言う学問は
何かの目的のための学問ではありません。古生物に興味をもってそれをもっと
知ろうとする事自体が目的なのです。」スポーツにも同じ事が言えるであろう
。スポーツに勝ち負けといった他の役に立つ目的を第一に望むべきではない。
スポーツをする事自体をまずは目的とすべきではなかろうか。
 
 ではどうすればよいのか。それは「見るための体育」と「するためのスポー
ツ」を明確に分ける事が大切である。ブラウン管を通して見えてくる体育はス
ポーツである事は決してない。それは映像上の疑似体験に過ぎない。これに勝
ち負けで一喜一憂する事は多いに結構だろう。だがその体育に見て楽しむ以上
の目的は持つべきではない。草野球でも構わない、オリンピックでの有名な言
葉ではないが「参加する事に意義がある」野球こそがスポーツであろう。
 
 しかし現実ではこのスポーツと体育の混同が色々な事件を生み出している。
サッカー・ワールド・カップ日本代表の一選手が敗戦の恨みをかって清涼飲料
水をかけられたことは記憶に新しいが、外国では選手の家に火が着けられたり
銃殺された例もある。どれも体育に見て楽しむこと以上の目的を求めたために
おきた悲しい結果だと言わざるをえない。
 
 確かに勝ち負けがあったほうが運動に熱が入る事も事実である。草野球でも
、最後は必ず引き分けで、などとしたところで楽しいはずがない。私は競争が
「スポーツ自体を楽しむ」事の一要素であればそれを全面的に支持する。しか
し勝ち負けがスポーツをする事自体しむことに先行したときそれはスポーツで
はなく体育のレベルとなるであろう。
 
 私は運動嫌いではない。しかし体育嫌いである。スポーツだけではない、あ
らゆる事に対してもする事自体を目的として行けば、それは結局、生きる事自
体をもっと楽しむ事に繋がるのではなかろうか。