いい事と悪い事 |
イチゴ | の | 池 | の広場 |
小林 | / | ねき | 中1 |
それぞれの個人は、責任をもつものとして意識し、行動している事になって |
いる。しかし、現実の日本人の多くは、世間の中にいる、一人の人間として行 |
動している。個人の行動を最終的に判定し、裁くのは世間だとみなされている |
からである。日本人の一人一人にそれぞれ世間がある。世間は日常の次元にお |
いては快適な暮らしをする上で必須なものに見えるが、その世間が持つ排他性 |
や差別的閉鎖性は公共に場に出た時にはっきり現われる。しかしそのような時 |
、私達日本人には、自分達が排他的な世間を作っているのだ、という認識がほ |
とんどないのである。 |
私達は自分達の世間だけでものごとの善し悪しを考え、社会的には悪い事で |
もやってしまう。例えば、会社の上司に、「この書類はあるとまずいから燃や |
せ。」といわれる。その時、絶対に「それはおかしいんじゃ……」というだろ |
う。しかし、「いいから燃やせ。そうしないとどうなるか分からないぞ。」と |
いわれたら、多分その人は仕方なく燃やすだろう。これは決して良い事ではな |
い。それなら、何故こういう事をしてしまうのだろう。それは、会社という世 |
間というよりも、自分の周りの世間を気にしているからであろう。これを燃や |
さなかったら、おそらくくびになるだろう。会社をくびになったら、恐らく周 |
りの人々は自分をけなすだろう。家庭も崩壊するだろう。それならしょうがな |
い、燃やしてしまおう。こういう感じだ。つまり人は、世界的感覚より、世間 |
的感覚のほうが、どうしても強いのである。 |
また、データをとってみると、大学(短大を含む)への入学者が高校卒業者 |
115万人中80万人と、三人に二人の割合である。しかも、大学の入学試験に落 |
ちた人も考えると、ほぼ全員が大学への進学を希望していた事になる。このな |
かには、本当に大学で勉強したいと思っている人もいるだろうが、世間の目を |
気にして、とりあえず入っておこう、という人も少なくないと思う。こんな所 |
からも、世間的感覚の強さが分かる。 |
「正しいものは、悩みも多い」というように、本当に正しい事は、世間にあ |
まり共感を選られない。しかし、人間に生まれた以上、いい事と悪い事がある |
のは、幼稚園の時に習う事である。世間に左右されるのは、言うなればしょう |
がない事である。しかし、自分を守るために世界的感覚で悪い事をするのは、 |
お世辞でも「いい事」とは言えないのだ。 |