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知識の生産
イチゴの広場
酔月あも高3
 情報には、精神的・主観的過程と社会的過程が同時に強調されるような二重
性はない。情報は、知識の素材であり、反復もされず、蓄積されない。また、
事柄の不確実性を減らし、経験を代用する為の道具にすぎない。強大な情報の
インフラストラクチャの建設が創造的なものを生み出すというのは空想の域を
でることはなく、データベースへのアクセサビリティーの向上など、知識社会
の為の有用な道具として活躍することになる。知識の生産は書き言葉によって
なされているのが現状だ。このままでいくと、情報には詳しいが、ものを考え
ない人間が誕生することは目に見えている。
 
 現代の情報化社会において、膨大な情報があれば、それ自体が価値のあるよ
うなものと勘違いしている現状が問題であると思う。
 
 雑誌などを購入すると、あらゆる情報が飛び込んでくる。人はそれを自慢気
に人に伝えるのであるが、実際に活用できているかというと、そうでもない。
それは、体系化された知識の一部分しか見えてないからなのだ。
 
 情報は知識でなく、知識の婢である。
 
 岩波新書に「日本人はえび好き」といったタイトルの物があったが、日本人
がえび好きなのは、情報であり知識ではない。それを、知識として、出版して
いる作者は、何者なのだろう。
 
 確かに、マーフィーの法則のように膨大な情報から法則性を見つけることで
、そこに知識を生み出すということがある。だが、これは情報と知識の統合結
果によるものであり、決して情報自体が生み出した法則ではないのである。
 
 辞書のような人間になることではなく、辞書が上手く使えるような人間にな
ることである。辞書という情報は上手に使われなくてはならない。
 
 情報自体に価値はない。情報は知識によって価値が与えられるのだ。