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ひとこと
助動詞「られる」
アジサイの広場
小山くさ中1
 ラレルは、「受け身」、「尊敬」、「自発」、「可能」の四つの仕事を同時に受け持つ、じつによ
く働く勤勉な助動詞である。しかし、「見れる」、「来れる」、「起きれる」などのら抜き言葉が永
く批判の的になりながらも、次第に多く使われるようになってきたのである。これは言葉だけに限っ
たことではない。例えば、「手書き」と「パソコン」を比べると、昔はパソコンなどないのだから「手
書き」だっただろう。しかし、今日は「手書き」より「パソコン」であろう。人間とは、「パソコン
」、「ら抜き言葉」のように簡単なものを選んでしまうのだろう。私自身も「ラレル」より「ら抜き
言葉」のほうが簡単で使いやすいと思う。そう考える理由は二つある。
 第一に、「ラレル」は使い分けが複雑で面倒くさいということと同時に、「ら抜き言葉」のほうが
発音しやすいということだ。「すみません」という言葉も「ラレル」と同じような運命をたどっている
のではないだろうか。昔はテレビなどで謝罪の時「すみません」だったのだが、現在では一般的に「
すいません」と言うのが当たり前のようになってきているらしい。私も「すみません」というのが正
しいというのは最近知ったばかりであった。確かに「すいません」のほうが発音しやすいので、一般
的になってしまい、私もなかなか気付かなかったのだろう。
 漫画「ドラえもん」でドラえもんの出す道具は機械に過信し過ぎた結果、だいたい最後にはあまり役
に立たないというような終わり方をする。しかし、現代の私達にはどれも夢物語である。これを上手
に使えばまさしく夢物語の主人公気分だろう。つまり、新しいものは、「ら抜き言葉」などと同様、
とても簡単である。
 確かに、「見られる」、「食べられる」、「来られる」という正しい言葉というのも大切である。
いくら面倒くさいからと言って「ら抜き」にするように自分勝手な事をするのは国語学者にとっては許
せないだろう。しかし、「できあがった規則をなんとか守ろうとすることよりも、実態に合わせて規
則を変えていくことが、真に規則を生かす道である」という言葉があるように人間の習性とは、簡単
で面倒臭くないほうを選ぶというのが大半だろうから「ら抜き言葉」の方が日本人にとっては使いや
すいだろう。