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ひとこと
「ラレル」マイナス「ラ」イコール「レル」
アジサイの広場
GT-Rえや中2
 ラレルは、四つの仕事を同時に受け持つ、実によく働く勤勉な助動詞である。その仕事というのは
、 ラレルは、四つの仕事を同時に受け持つ、じつに良く働く勤勉な助動詞である。ら抜き言葉は、
頻繁に現れる。なぜだろうか。第一の理由は、先にも述べたように助動詞ラレルがすこぶる付きの働
き者で、四つの仕事を一手に引き受けているからである。これを逆に、使う側の私たちから見ると、ラ
レルは使い分けが複雑で面倒くさい助動詞だということになる。可能の表現をラレルから独立させ、
つまりラ抜きのレルにして、「見れる」「来れる」「起きれる」という具合に表現することにした。ラレルよ
りレルの方が発音しやすく簡潔でもあるので、よく使う可能表現をレルにしてしまったということも
あるかもしれない。いずれにしても、ら抜き言葉を認めるかどうかは、二十世紀日本語の重大問題の一
つにはちがいない。ら抜き言葉は、永く批判の的になりながらも、しかし、次第に多く使われるよう
になってきたのである。しかし、言語というものはその本質において保守的なものである。
 ら抜き言葉というものは、しばらくすると正しい日本語ということになる。時代は変わるから言葉も
変わるものである。昔も江戸時代の武士が「ござる」と言っていたのが時代が変わるにつれて言葉も
変わった。テレビで若いキャスターがら抜き言葉を使っていたのでベテランのキャスターが、さりげ
なく言い直していたということが朝日新聞の声欄に載っていた。そして若いキャスターも言い直した
と言う。テレビは、どこにでも放映されるので人に対する影響が大きい。だからこういうことは良い
と思う。
 昔話で姥捨て山というお話があるが古い人間は姥捨て山に捨てられてしまう話である。この話を聞
くと今も昔もふるいものは新しいものにやられるということである。ヨーロッパの宗教でいえばキリ
スト教の新教(プロテスタント)、旧教(カトリック)も同じようで新教がキリスト教を占めるよう
になった。
 本題に戻るが確かに古い言語も大事だが新しい言語も大事である。時代は変わるからそれに伴いいろ
いろなことも変わるのが必要だ。そのうち新しい風潮が正しい事になってくる。「いかに飽きずに続
けるかではなく、飽きることとをいかに両立させるかということが大切だ」という言葉もあるように
、古い言語を変えていくことも大切だが残すことも非常に大切である。しかし、時代の流れには逆ら
えないということを分かっていなくてはならない。
 一、「せっかく買った週刊文春を盗られた」というような受動態。
 二、「社長が週刊文春を手に入って来られた」というような尊敬。
 三、「週刊文春は面白く感じられる」というような自発。
 四、「この図書館では週刊文春が見られる」というような可能。
 といった意味がある。
 日本語は実に難しい。『ラレル』一つの言葉でも、いくつかの意味に別れる。例えば、英語なら『
I』という『私』を表す単語でも、日本語にすると「私、俺...」などのいくつもの意味に別れて
しまうのだ。
 言葉というものは時代と共に変化していく。昔なら、「見られる、食べられる、来られる」などと
言われていた言葉も今は「見れる、食べれる、来れるなどと『ラ』を抜いた短縮形(?)のようなも
のになっている。
 今は、かなり若い人達もTVにたくさん出演している。そのようなところでも、言葉から『ラ』が
抜かれて話されている。それがバラエティー番組のようなものなら気が付かないことも多いかもしれ
ないが、ニュース番組などでは案外気になるかもしれない。
 確かに古い言葉も大切だ。しかし、今の言葉も大切だ。個人的にはどちらが大切とは言えないが。
自分が使いたい方を使えば良いし、場所に応じて使い分けるも良し。それしか言えないのだ。
 今は、何だか良く分からない短縮形の言葉がかなり出回っている。「チョベリバ」←古いな~。な
どがそうである。自分には一部を除き、意味不明である。
 このように、言葉というものは時代と共に変化していき最後は新しい言葉の方が多く使われるよう
になってしまう。物もそうである。今は、「手書き」というものが少なくなり「パソコン書き」とい
うものが主流になっている。(今使っている。)鉛筆という物も余り使われなくなり、今はシャーペン
となっている。皆さんも古い物をもう一度見直してみては...?