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芸術と点数
アジサイの広場
冨田あよ高1
 滑らかな表面が赤褐色に輝いている。先端は僅かに外側を向き、美しい曲線
を描いている。科学雑誌に掲載されていた、三内丸山遺跡で発掘された釣り針
である。私の目を引いたのはその生々しさであった。果たして今の我々にこの
レベルのものを作れるだろうか。そもそも年表というのは時間軸を表している
ものであろう。ところが我々は左から右へと人類の進歩を表していると信じて
いるのではあるまいか。おそらく縄文から現代まで人類は「人」として進歩も
衰退もしていない。あるのは変化のみである。我々は往々にして「今」にもと
づいた変化を進歩と呼んでいる。
 
 芸術の点数化にも同じような性格があるのではないだろうか。点数とは他と
の比較によってもたらされる。「今」をもとに変化を進歩と見誤るの同じく芸
術を点数という観点にから相対化することは、ときに芸術自体を見誤ることに
なるであろう。芸術に点数という他の基準にもとづいて評価すべきではない。
芸術は人に訴えかける芸術として評価されるべきであろう。
 
 ではどうすれば良いのか。それはその世界にどっぷりつかることである。私
は文化祭で「古生物学を学んでなんの役に立つと思っているのか」言われたこ
とがあるが、「他の役に立つ」という基準をもとに古生物学を評価は出来ない
。古生物学の世界にどっぷり漬かっている人は皆、古生物を知ろうとすること
自体が古生物学の醍醐味であると知っている。芸術の世界もそれと同じである
。絵画なら絵画の世界にどっぷり漬かることが大切である。その中でその絵画
を評価する絵画の定規というものが生まれてくる。
 
 しかし現実の世界は誤った基準からの点数化が多く行われている。ハリウッ
ド版ゴジラが世に出た時、新聞には「あれはゴジラではない」といった意見が
多く掲載された。「コンピュータで作られたゴジラなんてのはゴジラではない
。一歩一歩踏みしめている実体のある怪獣がゴジラである」というものである
。だが日本版のゴジラを基準にしてハリウッド版ゴジラを評価するのはいかが
なものか。一歩引いて議論を見ていると着ぐるみのゴジラがCGのGOZILLAを非
難しているとは滑稽である。
 
 確かに技術的進歩において過去の伝統を基準に点数化することは大切である
。体系がかなりしっかりできあがっている芸術の場合到達点として点数化する
ことは技術の進歩にとってとても有効である。しかし現在みられる安易な古典
偏重主義が芸術を正しくみることに繋がっているとはとても思えない。家を評
価できるのは大工ではなく住む人である。縄文の「人」を正しく評価できるの
は縄文人だけなのかもしれない。