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コンピューター
アジサイの広場
T.Oいう高2
 コンピューターに限らず、近代の複雑なハイテク機器を自在に使いこなすの
は決して容易なことではない。だが、そういう機器を使いこなせる人は単なる
一部の「機械につよい人」であって、本当ならば「使えなくて当たり前」とい
う人間が多いのが普通である。その機械に強いごく一部の人間だけが高度な技
術の成果を次々に享受してゆき、「機械には弱い」といった素人が機械を避け
るようになり、その結果次第に両者の差がひろがってしまいいつまでたっても
ハイテク機器が「万人のもの」にはならないのである。そもそもコンピュータ
ーをつくりだしたのは人間であり、人間は主人なのだから、その主人がしもべ
の方に遠慮することはないし、むしろ使い勝手の悪い製品に対しては堂々と文
句をつけられるくらいの世の中でなければならないのではないか。
 
 最近は初心者、なかでも団塊の世代の、最近の機械に不慣れがちな会社員向
けにパソコン教室があちこちで開かれている。そこへ通い詰めて幾月も経って
、やっと一人で扱えるようになるがそうはいっても全ての機能を使いこなせる
ようになったといえるわけではない。まだ知らないアイコンをうっかりクリッ
クしてしまい、うろたえてしまうこともよくあることだ。このような経験から
、機械に対して抵抗を覚えるようになり、それで機械に疎くなる場合もありえ
るのだからやはり機械はどんな人でも気軽に扱えるような簡潔なものにするべ
きである。
 
 「桃太郎」で例えると、村の人々は鬼におびえながら細々と暮らしていたが
、桃太郎はそういった状況を打破するために鬼退治に出発した。この話だけに
限らず、英雄が登場する物語は人間が何かに対して遠慮しながらあるいは恐が
りながら暮らして、そこで英雄がその原因になっているものを取り除くために
現れる。環境に振り回されるばかりではなく、逆に良いところだけをつまんで
利用してやるのも知恵である。
 
 道具を使いこなすためには、使う側にもある程度の努力は必要である。ただ
、その扱う対象物が複雑になればなるほどこちら側の努力も比例して多くしな
ければならないということになる。しかし、人間が生きてゆくのに道具の扱い
の一つや二つにだけかまっていられるわけではないし、人間がわざわざ道具の
ためだけに骨を折るようなことをしなくても、道具そのものを人間が使いやす
いように作り変えてしまう方がより簡単である。「できあがった規則をなんと
か守ろうとすることよりも、実態に合わせて規則を変えていくことが、真に規
則を生かす道である」という言葉にもあるように、今あるものを何とか使いこ
なしてやろうともがいているよりは、こちらの都合のよいように勝手にアレン
ジしてしまっても、何も悪いことはなくむしろそれを賢いというのではないだ
ろうか。