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見ることと 話すこと
アジサイの広場
Bearふね中2
 日本人は、コミュニケーションをするときには、言葉だけでなく、物理的対
象物をともに「見る」ことで、社交を成り立たせている。そうすれば、話がと
ぎれて、何か気まずい思いをしなければならないかもしれない、と言う緊張感
を持たなくてすむ。しゃべりたい時はしゃべって、しゃべることがなくなった
ら、見ていればいい。そういうものの代表として、月見、花見、雪見がある。
日本人の自然観賞の基本となっているこの三つは、どれもうつろいやすく、そ
のうつろいやすいものを惜しむと同時に、人の生命のはかなさや、社会は常に
移り変わってゆくことを感じるのである。
 
 確かに、話が途切れると、気まずい雰囲気になってしまい、言わなくてもよ
いことや、つまらないことでも言ってしまう。友達と放課などにしゃべってい
る時、話すことがなくなって、会話が途切れてしまい、気まずくなってしまう
ことが何度もあった。その時に、わざわざ「はぁ」とため息をついたり、「疲
れたぁ」と、特別疲れてもいないのに言ってみたりして、次の話題を待ちなが
ら、何かいい話題はないか、と考えてしまう事が何度もある。この長文を読ん
で、私も何か「見る」対象物をおいておくことができたら、こんな事をしなく
ても気まずくなどならないのに、と思った。
 
 しかし、言葉で表さなければならないこともある。見るだけでは、他人の思
っていることを詳しく理解することはできない。
 
 「科学の父」として尊敬されているガリレオ・ガリレイは、コペルニクスの
地動説をさらに確かめるため、沢山の星の観測を行い、それが、疑うことので
きない真理だと見いだし、恐れずにその学説を述べたため、当時の人々を驚か
せた。しかし、その頃ヨーロッパを支配していたカトリック教が、ガリレイの
考えは、カトリックの教えをないがしろにし、世の中をあやまるものとして、
彼を宗教裁判にかけた。しかし、彼は屈せず、その説を述べた。もし、彼が宗
教裁判にかけられることを恐れて、この説を述べなかったら、今の科学技術は
、ここまで発展していなかったかもしれない。そう考えると、言葉ではっきり
と言うことが、とても大切だと思えてくる。
 
 こうしていろいろな事を考えてみると、「見る」事と、「話す」事は、どち
らが大切かわからなくなってくる。国際化が進むにつれて、外国と日本の違い
について自ずと考えさせられてしまう。西洋人は話すことが主だが、日本人は
見ることに重点を置く。しかし、西洋でも、日本でも共通して言えることがあ
る。それは、自分の考えをしっかりと持つことである。人の意見を聞いて、「
私も」とその人に合わせるだけでなく、「私はこう思う」と、自分の意見をき
ちんと持ち、言ってみるのもいいと思う。そして、相手の言うことに納得がい
くのなら、素直に納得すればいいと思う。「自分が考えるとおりに生きなけれ
ばならない。そうでないと、ついには自分が生きたとおりに考えるようになっ
てしまう。」とあるように、そうすることで、自分の前の世界が、もっと開け
てくると思う。