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■これまでのあらすじ
世界には、二つの文化があります。一つは、ヨーロッパの哲学に見られるように、「自分という個別的な物が最初に有り、その対象となる個別的な物の集合としての外界が有り、物と物とが任意に関係を結ぶ」という世界観です。これを「有の哲学」と呼び、この哲学に基づいて形成された文化を「有の文化」と呼びます。
もう一つは、インド、中国、日本などの古代の哲学に見られるように、「自分という個別的な物はもともと無く、有ると見られている物は、その物以外の外界(つまりその物にとっての無)から結ばれている関係である」という世界観です。だから、すべての物はもともと無いと同時に永遠に有るとも言えるし、すべての個はそのまま全体であるとも言えるという考え方です。この逆説的な論理を、日本人の多くは感覚的に理解します。
二つの文化の違いをわかりやすく言い換えれば、有の文化を、エゴイズムの文化、物の文化、自己主張の文化と呼ぶことができます。これに対して、無の文化は、思いやりの文化、一体化の文化、共感の文化と呼ぶことができます。
現代は、有の文化が世界を支配しています。先進国で無の文化を持ち続けている国は日本だけですが、その日本の無の文化もまた、世界の有の文化に脅かされています。
日本には、無の文化を守り、世界の有の文化を無の文化の中に包み込み、平和で創造的な地球を作る役割があります。
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教育もまた、有の文化の論理から抜け出て、無の文化のもとに再構成する必要があります。では、教育における有の文化に対置する無の文化とは何でしょうか。
第一は、受験のための教育ではなく、実力のための教育を行うことです。
第二は、得点のための教育ではなく、文化的な価値観を持った教育を行うことです。
第三は、学校や塾という外部に全面的に委託した教育ではなく、家庭での自学自習を中心とした教育を行うことです。
第四は、他人との競争に勝つための教育ではなく、自分自身の独立を目指すための教育を行うことです。
競争に関して言えば、有の文化から無の文化に切り替えることによって、競争の性質も変わります。
有の文化のもとでの競争は、自分の利益のために他人を蹴落とす競争でした。しかし、日本の文化になじんだ人は、このような競争に心からは没頭することができません。よく親や先生が子供に向かって、「勉強するのは、あなた自身のため」であり、「勉強しないと損をするのは結局自分自身だ」という説得をすることがあります。しかし、この説得は、子供にも言っている本人にも、あまり心に響いてきません。有の文化の価値観に基づいた競争は、無の文化を持つ日本人にはぴんと来ないのです。
無の文化における競争は、自分の利益のための競争ではなく、自分の周囲の集団や社会に貢献するための競争です。
例えば、年末の紅白歌合戦が視聴率の高い長寿番組となっているのは、それが参加する個人の優劣を競う競争ではなく、個人が属する赤組と白組という集団に貢献するための競争となっているからです。
勉強における競争も、この紅白歌合戦のような競争に組み立てることができます。赤組と白組で、どちらがいい成績をとれるかを競争すれば、それぞれの組の子供たちは、できる子はさらにがんばり、できない子はみんなが協力してできるようにさせるためにがんばるでしょう。
しかし、このような無の文化は、取り組む人の姿勢によっては、容易に有の文化の競争に転化する可能性を秘めています。例えば、もし一方の組のリーダーが、競争に勝つために、自分の組のできない子を排除し、相手の組のできる子を陥れようとするならば、その対抗上、他方の組も同じような対応を考えていくでしょう。集団に貢献するための競争が、集団の力に個人を隷属させる競争になる可能性もあるのです。
これが、世界中で、無の文化がことごとく消滅していった理由です。無の文化を持つ100人の中に、1人の有の文化が入るだけなら、それは集団に対する一つ知的刺激になるでしょう。しかし、これが、2人、3人と増えていくと、途中で全体が一挙に有の文化に転化するのです。
日本が思いやりと共感の社会を形成してきたのは、日本の社会に海外からのエゴイズムの文化が大量に流入してこなかったからです。
しかし、これまでは、海洋に隔てられることによって守られてきた日本の文化を、これからは政治の力で守らなければなりません。例えば、農産物の自由化、海外からの移民の受け入れ、外国人への参政権の付与などは、原則として停止するぐらいのゆるやかな速度で徐々に進めていく必要があるでしょう。
日本の社会を、平和な未来の地球の最後のモデルとして守るためには、野獣どうしの力の均衡や、力による秩序から距離を置き、有の文化の持つ策略や武力を、強力な無の文化のテクノロジーで包み込んでいく必要があります。
それは、地球人の課題であるとともに、未来に出会うはずの平和な宇宙人たちとの協力の前提でもあるのです。(おわり)