森リンの点数は、作文の点数というよりも、作文力の点数です。80点台後半の点数を取れるということは、作文力があるということです。
どのくらいの点数がどのくらいの作文力かということをわかりやすく言うと、森リン点90点が大学で言えば東大レベルです。これは、これまで森リン点でたまに90点を取るぐらいの生徒が、そういう学力を持っていたからです。
もちろん学力が成績になるためには、それなりの勉強の量と方法が必要です。しかし、森リン点が高いということは、それだけの潜在力を持っているということです。
ところで、森リン点は、点数を上げることを意識して書くこともできますが、本当は点数は結果に過ぎません。森リン点の結果を生み出す源は、読書の質と量とこれまでの思考の蓄積です。
だから、大事なことは、作文を上手に書くことではなく、本を読み自分の考えを深めていくことです。その読んだり考えたりした結果が、作文として表れてくるのです。
今回のピルルさんの作文を見ると、複数の方法という構成も、取り上げている実例も、反対意見への理解を含む主題も、結びの自作名言も、高校生としてとてもよく書けています。
これは、その場で努力してできるものではなく、普段からの読書と思索の蓄積があるからできることです。
これは、前に森リン大賞として載せた中2のききほさんの「
みんなちがってみんないい」にも、小6のりすっぴさんの「
お米は命!」にもあてはまります。
どの作文も、その背景に、その生徒の日本語力の蓄積があるのです。
高1のピルルさんが言葉の森を始めたのは、小4になったばかりのころです。そのころに、自分が高校生になってこういう文章を書けるようになるとは思っていなかったと思います。
誰にでも途中に様々なスランプがあります。しかし、勉強を続けていく中で、考える力や表現する力は確実についていきます。
他の教科、例えば算数数学や英語や漢字の書き取りなどでは、学年を越えた先取り学習ができます。しかし、作文はそういうことができません。
時々、よくできる低学年の生徒の保護者で、もっと先の学年の勉強をさせてほしいと言ってこられる方がいますが、作文はそういう先取りはできないのです。それは、この高校生の作文を見ればわかると思います。
どんなに優秀な小学生でも、高校生のレベルの文章は、高校生にならなければ書けません。そして、それで充分なのです。
だから、小学校中学年のころに、塾の勉強が忙しくなったからという理由で、作文の勉強をやめてしまう生徒がいるのは、本当にもったいないと思います。
それは、たとえて言えば、料理の最も栄養のある中身を、噛むのが大変だからと言って捨てて、表面の栄養のない着色した部分だけを満腹になるまで食べているようなことだからです。
何年かたったあとに、栄養のあるものを消化していた生徒と、栄養のない表面だけを食べていた生徒とでは、考える力に大きな差が出てきます。そして、その差は、大学に入り、社会に出るころには、更に大きな差になっていきます。
小6や中3の受験期に、一時的に作文の勉強と受験の勉強が両立できなくなることはあります。しかし、その受験の一時期が終わったら、またすぐに再開するという長い展望で作文の勉強を続けていくことが大事なのです。
7月の森リン大賞(高1高2高3社の部137人中)
ちがうということ
ピルル
私たちは多種多様な互いの差異を示し合う生き方をすべきだ。
そのための第一の方法は、極端に平等を良しとする発想をやめることだ。私が好きなイラストレーターに中原淳一という人物がいる。彼は男性だが、女の人の良さがとてもよく表現された華やかで可愛らしい作品をたくさん残している。私が読んだ彼のエッセイの一部に男女平等の考えについての彼の考えが書いてあった。彼は、男女平等とは、女らしさや男らしさの良さが混同され、消えることではないと書いていた。同等の機会が与えられるのは良いことだが、それぞれの違いがなくなるのはよくないと考えていたわけだ。私はこの考えにとても共感した。確かに男女ではまず体のつくりが違う。構造という基本的な根本の部分が違えば周囲の物事への感性や対応の仕方が違ってくる部分は大きいだろう。しかし、そうした違いが魅力であると彼は主張していた。部分的には差異が劣って見えることもある。しかしそれは固定観念が優越をつけるだけで、全体的にはどちらにも欠けた部分は無いとする考え方は、私にはとても自然で心地よく感じた。現代では、男女の違いは一方的な差を生み、またその差が悪いものであるとする風潮があるように思う。だが、元々あるものの事実から生じる違いを認めることが、それぞれの違いが光り、皆が幸せになれる本来の平等への道なのだと思う。
第二の方法は、子供たちに具体的な行動の方向性を社会が示すことだ。西郷隆盛の出身地である鹿児島県の加治屋町という集落に、郷中教育という教育方法がある。これは、集落の子供たちの年長者が年少者を指導、教育をするというものだ。指導をする範囲は広く、私生活から剣術、学問などを年長者は後輩たちに教えた。また、この教育方法では、剣術に優れないなら学問の能力を伸ばすというように、一つの型にこだわらず、多様性を認めていた。子供たちは個性を認められていたのだ。年長者は自分が幼い時、年上の子供に世話をしてもらったのだから、年少の子供たちにも同じように世話をする。この繋がりがずっと続いてゆき、信頼し合える頼りがいのある人間へと育てられてゆくのだ。問題を起こさせないよう、違いを目立たせずに教育しようとすれば、こうした教育はできない。はっきりとしたやるべきことの規定を周囲の社会が決めているからこそ、年齢の違う縦の繋がりの中、自分の立場を役割を見据えて自主的に行動できるのだ。もちろん、示された行動が子供たちの未来を限定するようなものでは意味が無い。周囲の環境が安定していることも大事なのだ。
確かに、違いはあっても同じ機会を与えることは大切だ。個性が人それぞれであるように、可能性もそれぞれで、必ずしも差異によって可能性は限られるものではない。しかし、差異とは他者と比べて欠点になるものではなく、比べる必要の無い美点である。自らの持つ特徴をいかして高いレベルへ登り詰めようとする行動は周囲にとってもその人自身にとっても利益となる。面倒事が起きないように差異をならして全てを同じにすることは、表面的には管理が楽かもしれないが、どこかでひずみが生じる。一人一人の差異を、偏見無くただの事実として認めることが、のびのびとした自分らしさとまとまった社会をつくるのだ。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
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1位 | ●ちがうということ | ピルル | 90 | 1342 | 62 | 82 | 85 | 83 |
2位 | ●自由な競争 | ゆまり | 89 | 1309 | 59 | 76 | 79 | 92 |
3位 | ●手助けをするとは | 森?外 | 86 | 1210 | 57 | 92 | 94 | 95 |
4位 | ●世代関係がないこと | きよほ | 86 | 1358 | 59 | 72 | 72 | 86 |
5位 | ●時代の変化 | らちす | 84 | 926 | 54 | 74 | 79 | 100 |
6位 | ●時代と親子の関係 | もぐ月子 | 83 | 1063 | 58 | 81 | 93 | 89 |
7位 | ●自分へのQuestion | なすび | 83 | 1090 | 58 | 74 | 70 | 83 |
8位 | ●様々な考え | なるか | 82 | 1327 | 56 | 105 | 97 | 86 |
9位 | ●競争心 | ハッピームーミン | 82 | 1056 | 53 | 66 | 65 | 93 |
10位 | ●社会で望まれるもの | ななみ | 80 | 858 | 52 | 72 | 78 | 90 |