これからの教育を考える場合に大事なことは、人間をどう見るかということです。
これまでの教育は、人間を性能のよい歯車として見ていました。それは、決して否定的な意味ではありません。
社会という機構が正確に動き、その社会の発展がみんなの幸福に結びつくためには、一つひとつの歯車もやはり正確に動く必要があったからです。
そしてまた、性能のよい歯車になることは、その当人にとっても利益をもたらしました。
よい歯車と認められれば、その性能に見合った高収入を約束されたからです。
性能のよさとは、端的に成績のよさで表されます。国語数学英語理科社会という主要5教科の成績がよいことが、その人間の性能のよさとほぼ一致していると見られていました。
その結果、歯車の性能の客観的な指標として、学歴というものが重視されるようになりました。
やがて、勉強の目標自体が学歴になり、その学歴を手に入れるための受験勉強が目標になりました。
そして、勉強の目標から学問が次第に消え去り、その代わり、答えに早く近づく技術が勉強の中身になっていきました。答えに早く近づく技術を習得することが勉強そのものだと思われるようになったのです。
ところが、受験勉強として習得された技術は、ゲームの技術の習得と似ていて、現実の生活にはあまり役に立ちません。
昔、受験勉強がまだ学問と比較的結びついていた時期には、受験勉強はその人の成長にもプラスになりました。しかし、受験勉強が技術化するにつれて、勉強の技術は現実生活の技術とは関係の薄いものになっていったのです。
これからやってくるのは、創造性を必要とする現実生活です。
誰もが自分の創造性を発揮し、それによってその人自身が幸福を感じるとともに、社会全体がその創造性によって豊かになっていくという世界がこれから生まれてきます。
そのときに必要なのは、人間を歯車として見ることではなく、創造する種子として見る見方です。
ちょうど、ドングリの実を、コマ作りの材料として見るのではなく、将来のドングリの木々やドングリの林の可能性として見るような見方が、これからの人間の見方にも必要となってくるのです。
ドングリの例で言えば当然のように思えることが、これまでの人間の見方においては当然ではありませんでした。むしろ、これまでの人間の見方は、その人間が「歯車として使えるか使えないか」ということが中心になっていました。
では、人間を、歯車ではなく種子として見たとき、教育はどう変わっていくのでしょうか。(つづく)