作文の勉強が頭をよくするという話の続きです。
頭をよくするためには、難しいことを関心を持って考えるという過程が必要です。
これは、考えてみればあたりまえのことです。複雑なことを考えればそれに対応して考える枠組みができるので、それが他の勉強などにも生きてきます。
しかし、その難しいことは、ただ考えるわけにはいきません。興味のあることでなければ、人間は考えようと思わないからです。
遊びが子供の頭をよくするのは、遊びという興味のあるものに取り組むことを通して、その遊びに必要なことを考えようとするからです。
だから、同じような遊びであっても、子供が自分なりに工夫できる余地のあるものが、教育という観点から考えた場合はよい遊びと言えます。楽しいことが遊びの基本ですが、楽しければいいものではないということを大人は考えておく必要があります。
では、遊び以外の生活面で、子供が興味を持って難しいことを考える場面は何かというと、それは親子の対話なのです。
子供、特に小学校低学年までの子供は、親の言うことを関心を持って聞きます。それが興味深い話であれば、なおさらです。
ここで、親の話し方が重要になってきます。
親が子供に話しかけるときに、わかりやすく、面白く、かつ楽しい雰囲気で話すことが大事ですが、更に、もうひとつ「難しく話す」ということもまた大事なのです。
難しく話すというのは、難しい語彙も入れながら話すということと、難しい構造の文で話すということと、理解が難しい複雑な内容のことを話すという三つの面があります。
こういう高度なことできるいちばんの存在が、子供にとっての親です。
そして、そういう面白く高度な話をするきっかけにできる最適の機会が作文なのです。
作文には、子供が自分の興味を持っていることを書きます。すると、その作文を見て、お父さんやお母さんが関連した似た話を、お父さんやお母さんの体験談などを盛り込みながら話しやすくなります。
子供は、両親の体験談を聞くのが大好きです。その体験談を通して、自分の生き方の基盤を築いているのだと思います。
しかし、何もないところに、親が突然自分の体験談を話すというのは、話す材料が見つからないときはきっかけがつかみにくいのです。
しかし、子供の書いた作文があれば、それを題材にしていろいろな話の案が浮かびます。
また、毎週作文を書くとい課題があると、それが自由な題名の作文の場合は、話題作りを工夫することができます。
その話題作りとは、特に大がかりな遊びをしたり、どこかに出かけたりする必要はありません。日常生活の中で、ちょっとした一工夫で子供にとって新しい経験になるようなことを企画することができます。
例えば、日曜日などに、「じゃあ、今日は一緒に玉子焼きを作ってみようか」などということでいいのです。
その玉子焼き作りの過程でも親子の対話が生まれますが、それを子供が作文に書けば、またその作文をきっかけにして親子の対話ができます。
その親子の対話の中に、親自身の子供時代の体験などを盛り込みながら、面白い、しかし高度な話をしていくことができるのです。
小学校低学年のうちに、そういう親子の対話の習慣を作っておくと、子供が小学校中学年になり、作文の課題に感想文が入ってくるようになると、対話は自然により高度なものに発展していきます。
そして、その小学校中学年のころに、高度な対話を楽しく続けていれば、子供が小学校高学年になり、作文の課題が説明文や意見文の難しいものになったときに、更に行動な話を自然に続けていけるようになるのです。
しかし、こういう親子の対話の習慣が小学校低学年のころから作られていないと、子供が例えば小学校高学年で、公立中高一貫校の入試に出てくるような難しい課題の作文を考えるときに、親子が自然に対話をするということがかなり難しくなります。
作文の勉強というのは、ただ書いたものを添削するようなものではありません。そういう勉強では、すぐに限界が来ます。
添削を受けるというのは、作文の勉強のごく一部であって、作文の勉強のいちばん大事な部分は、事前の親子の対話と経験と、事後的な対話です。
その対話には、母親だけではなく父親の参加も必要です。父と母と子が、作文をきっかけにして難しい話を楽しくする習慣が日常的にあるということが、子供の頭をよくしていくのです。