「二月の勝者」という本を見ると、ここには、すでに完成された世界がある。
完成された世界というのは、言い換えれば、のりこえられた世界ということだ。
それは、ピークの直前であり、末期症状の始まりでもある。
しかし、科挙が、その歴史的役割を終えたあとも、無意味な秀才を輩出しつづけたように、その無意味さが明らかになるのは、欧米の侵略に対応できないことがわかってからだった。
今の日本の秀才の危うさも、ここにある。
小学3、4年生から、勉強や宿題が忙しすぎて、ゆっくり本を読む時間も取れない子供たちの未来は暗い。
「読書は、行き帰りの電車の中だけで済ませなさい」という家庭さえある。
そして、そこで身につける勉強で、社会に出てからも役立つものはほぼ何もない。
ただ、受験に合格するためだけの勉強に、貴重な子供時代を過ごす。
多くの保護者は、先生とか、医者とか、専門家とかいうものの権威に弱い。
最も頼りにするものは、他人の権威ではなく、自分が生きてきた中で身につけた人生観だ。
そのために大事なのは、権威に頼らない勇気だ。
知識を詰め込んだ子供たちは、条件反射的に、いろいろな質問にすぐに答える。
だから、一見賢そうに見える。というか、ある意味で賢い。
しかし、自分で考えるべき問題になっても、考えることをせずに、ほかから答えを引用しようとする。
ほとんど、AIのレベルの賢さだ。
社会に出て、仕事をするときに、AIを仲間として仕事をしたい人がいるかどうかを考えればわかる。
世の中で活躍できるのは、AIにはない個性と勇気と思考力と共感力のある人間だ。
活躍ということでなく、自分に納得できる人生を送ることと言ってもいい。
そういう先のことが見えないから、ほんの数年の目先の勝ち組になることが勝者だと勘違いする。
世の中は、これから激変する。
しかし、どういう変化があっても、その変化に乗れる人間になることが子育ての基準だ。
そのために、第一に大事なことは、熱中できるものがあること、第二に大事なことは、読書をし続けることだ。
一見、今の勉強の成績にはすぐには役立たないように見えるものこそが、子供の本当ののびしろになる。