これまでの教育は、先生が生徒に教える教育だった。
それは、決して普遍的な教育の姿ではなく、教材と、教場と、教師が限られている中で生まれた歴史的な教育の形態だった。
しかし、それは、学校と教室と黒板と教科書とセットになっているので、あたかも教育の本来の形式のように思われていた。
この集団一斉指導の教育は、無駄が多いので、それをカバーするために、宿題とテストと競争を必要とした。
そして、やがて、教育は、子供の成長のための教育ではなく、テストのための教育になった。
そのテストのための教育で最も恩恵を受けたのは、教師だ。
集団一斉指導の効率の悪さをカバーするために生まれたのが、動画配信授業と一対一個別指導だった。
動画を見る授業は、自分のペースでできるから、勉強の目的が明確な生徒であれば効果はある。それは、動画でなく、参考書による自主学習でも同じだ。
一対一個別指導は、その場で勉強をせざるを得ないという意味で、誰にとってもそれなりの効果はある。問題は、多くの先生が教えすぎてしまい、子供に自分で考えさせる時間を持たせないことだ。これは、教えてくれるのが「いい先生」と考える親にも子にも原因がある。
動画配信授業にも、一対一個別指導にも欠けているのは、勉強を通しての子供たちの交流だ。
その交流とは、時々お楽しみ会をやるというようなものではなく(やってもいいが)、一緒に同じ問題を考えるとか、ほかの友達の答え方を聞くとかいう知的な交流のことだ。
そもそも、小中学生の勉強は、それほど面白いものではない。それは、山登りの前の長い単調なアプローチのようなもので、その先に気持ちのいい尾根と山頂があるということは、話には聞いていても子供たちには実感がない。だから、往々にして、賞罰や競争が突出して勉強の意欲付けになる。
それに対して、江戸時代の寺子屋は、なぜ、受験競争もない時代に、優れた教育を続けられたかというと、そこに子供たちの知的な交流があったからだ。
この教育が、コミュニティの教育だ。
コミュニティの教育の中には、作文の実例の一部を保護者に取材するという、家庭も含めたコミュニティもある。
しかし、より大事なのは、一緒に勉強する子供たちどうしが、勉強を通して親しくなることだ。
勉強の意欲は、親や先生の褒め言葉だけでなく、それ以上に、子供たちどうしの暗黙の交流の中で生まれる。
例えば、ある子の読書紹介の翌週に、他の子が、その子が読んでいたのと同じ本を自分も読んだということ紹介する。そのとき、その二人の子供たちの間に伝わる連帯感は、学ぶことに対する感動とも言える。
競争でも、賞罰でもなく、この感動が、勉強を続ける意欲になる。
オンラインクラスで一緒に学んだ子供たちは、遠足やサマーキャンプで、自然に一緒に参加することが多い。勉強を通して知り合った子供たちだから、初対面でも気心が知れている。
そこで生まれた学友意識が、卒業してからも続けられるように、ある先生のもとで学んだ子供たちが、いつでも好きなときに立ち寄れる場所を、それぞれの先生ごとにウェブ上に作っている。まだ、公開していないが(笑)。FacebookやTwitterやYouTubeのような既成のメディアは、もちろん使わない。
人間の生きる目的のひとつは、幸福に生きることだ。
そのほかに、向上すること、創造すること、貢献することがあるが。
幸福に生きるための大きな要素が、コミュニティの中で生きることだ。
言い換えれば、幸福な気持ちで勉強することが、コミュニティの教育である。