トウガラシ
これまでの森リン大賞は、森リンが採点した点数の1位の作品をそのまま表示していました。
その際、感想文の要約の部分が残っていると、森リン点の点数が上がるので、要約の多い作品は、森リン大賞の代表作品から除外していました。
しかし、3月に再開した森リン大賞からは、森リンの採点をもとに人間が内容の評価も加味することにしました。
それは、森リンは、作文の語彙力とそのバランスを評価するだけで、作文に書かれている内容を評価することはできないからです。
したがって、作品に要約の部分が残っていても、それ以外の文章で内容的にも優れているものは、森リン大賞として選ぶことにしました。
実際には、森リン点の1位の人が、そのまま代表作品として選ばれている場合がほとんどですが、中には、人間の評価を加えることによって、2位や3位の作品が代表作品となっている場合もあります。
今回の中学3年生、高校生の作品は、それぞれ森リン点でも1位の作品です。
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php?nenn=2023&tuki=05
●中学3年生の課題の部
花が満開になるまで あうそな 87点
「必要」という言葉の表現として英語には「ニーズ」と「ウォント」がある。「ニーズ」は理性による判断から生まれるもの であるのに対し、「ウォント」は内なる欲望から生まれるものである。 新しい物を生み出す、創造するためには、飛躍というものが 必要であり、この飛躍の原動力が 「ウォント」 である。私は「必要だからする」というのではなく、「したいからする」という内なる熱い動機を大切にする生き方をしたい。
そのための方法として第一に、自分で立てた目標を達成させるという強い信念を持つことだ。私は、成功したしていないにかかわらず、自分で決めて実行したことは人生でとても役立つと考える。私は以前、学級をより良くしようという取り組みで、自分のアイデアを実行して頑張ったことがある。それは学級お悩みボックスだ。これは、みんなが自分の悩んでいることを箱に入れて、日直さんが答えてくれるという取り組みだ。この出来事は私が小学5年生になって間もないころにあったことだ。初めは、誰もお悩みを書いてくれなかった。普通は落ち込むところだが、私の場合、逆に成功させてやると燃えて自分でお悩みを作って書いたのである。その内容はお悩みボックスに誰も何も書いてくれません。どうしたらいいと思いますか、というもの。それがみんなには大ウケだったらしく、次の日からみんないろいろなことを書き込んでくれた。とても嬉しかったし、自分がしたことをみんなに受け入れられて誇らしかったのを覚えている。つまり、強い信念が達成への近道であるハシゴを組み立てるのだ。
また第二の方法としては、社会の価値観に縛られないことだ。私は、人によってそれぞれ人生の価値観は異なるため、それを周りと合わせてはいけないと思う。最近よくニュースで見かけるのが、高校まで地元の公立の学校に通っていたが、超難関大学に通う人の紹介だ。その人は特別頭がいいギフテッドでもなければ、親が特別賢いわけでもない。ただ懸命に努力し続けただけだ。最初はいけるはずがないと馬鹿にされたが、自分を信じて夢を叶えた。日本の東大医学部生の中には、幼い頃から親にずっと教育させられてきたり、難関中高学校に通ったりする人もいる。そしてそれが難関大学に合格する道だという考えを持つ人も少なくない。そんななかで、ここまで来れたのは驚くべきことである。私はその人の努力に感動した。要するに、自分のしたいことは、周りに惑わされずに突き通すべきだということだ。
確かに、勉強などしなくてはいけないことはもちろんあって、それも人生において大切だ。しかし、「人生に意味はない。あるのは欲望だ。欲望があるからこそ、バラはバラらしく花を咲かせている。」という名言がある。この言葉のように、私はこれから、自分の心の「これをしたい」という叫びを大事にしていきたい。また、自分らしさを周りに流されずに持ち続け、様々なことに挑戦していきながら、私だけの花を満開に咲かせたい。その花が、世界に認められる花になるまで。
●高校生の課題の部
現在の教育に物申したいのだが。 あきつぐ 91点
先月私は高校に入学した。期待と不安を胸に高校生活を開始したのだ。オリエンテーションなどを経て、授業が始まった。私はつまずいた。完全に出遅れたのだ。自分自身暗記は苦手ではないのだが、覚える気にならないとこれっぽっちも入ってこないのだ。特にその被害を受けたのは数学である。新しく公式を覚えなくてはならなくなった。私にとって地獄だった。練習問題に対してここまで苦戦したのは初めてだった。因数分解や展開の問題でさっそく止まった。中学の時はもっとできていたはずなのに。そこで私は閃いてしまった。「あ、これ公式使わずに無理やりやればいいんだ」と。
確かに今の時代は過程を大事にする時代になってきている。数学の先生にも言われてしまった。しかし正直言って答えが求まればいいではないか。これはある種、本文に出ているような適応力なのではないだろうか。それこそ評価するべきではないのだろうか。
そこでそんな適応力を評価できる世の中にする案を考えてみよう。まずは一つ目。それは「その場その場での力を評価する」ことだ。臨機応変とも言えるだろう。その時々での力こそがその人の真価ではないだろうか?過程が大事なのは私達生徒も重々理解している。ただ、社会に目を向けたとき。頑張っていたから、やり方があっていたからそれでいいのだろうか。結局は結果を出さなければ意味がないのではないだろうか。これを酷だと言う人もいるだろう。しかし、答えはあっているのにバツにされてしまうのもまた、酷ではないだろうか。答えが最終的に合っていれば評価してもいいのではないだろうか。それこそが評価されるべきだと思う。
二つ目は「今の学校教育の評価の仕方の中心をテストから違うものに切り替えていくこと」ではないかと思う。テストが1番大きく比重を持つ近年の成績方式。そのせいで生徒は勉強に対して義務感を持ち、嫌悪感を持つ。まして、問題で「途中式を書け」なんて言われたらたまったもんじゃない。大事なのはそこではないのではなかろうか。よりフラットで、自由度の高いものの方がその人を評価できるのではないだろうか。わかりやすいのは理科だろう。確かに、式を覚え、記号を覚えるのは大事だ。でもそれ以上に実験をみてはどうだ。と、私は日々思いながらテストを受けている。また、テストを行うことは勉強に対する生徒の考えを歪めてしまっていると思う。「テスト2週間前だから勉強しなきゃ!」と、なってしまうのは望ましいことではない。勉強はテストで点を取るためにやるのではないのだ。逆なのである。勉強の効果測定のために、勉強の気力を維持のためにやるのだ。これはテスト中心である現代の教育が抱える大きな問題である。
今までの学校生活でわかったことがある。おそらく誰もが知っている。それは「みんなテストが嫌いで、体育や実験が好きだ」ということ。体育や実験は自分の力が、自分の判断がその場その場で発揮でき、生徒たちもやりがいがあるのではないだろうか。だからこそ私は「適応力」と言うものを中心として評価していける世の中にすべきだと私は思う。