ヒルガオ
作文には、算数力が必要とする記事がありました。
これは、そのとおりです。
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作文は「理系だと苦手」「文系が得意」という大誤解
算数が得意な子は大概「作文もうまい」納得理由
https://toyokeizai.net/articles/-/766692
2つの条件p, qについて、命題「pならばq」が成り立つ時、pはqの十分条件、qはpの必要条件である。
具体例として、「冷奴」で考えてみましょう。目の前になにかの料理があります。もし、この料理が冷奴であれば、その料理は豆腐料理ですよね。
つまり、「冷奴?ならば?豆腐料理」が成り立ちます。
……
逆に、目の前の料理が冷奴かどうかを判別したいとします。このとき、その料理が冷奴なのか麻婆豆腐なのか味噌汁なのかはわかりませんが、少なくとも豆腐料理であることが必要です。このことから、「豆腐料理」であることは、「冷奴」であることの必要条件だとわかります。
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必要条件とか十分条件とかいう漢語で説明するからわかりにくいだけです(笑)
A→B。「十分条件=それは必ずそう言える」「必要条件=それは必ずしもそうは言えない」と和語で考えればいいのです。
しかし、こういう論理的な考え方ができない生徒が多いのです。
小学生のときまで、事実中心の楽しい作文を書いていた子が、中学生の意見文の課題になると、急に書けなくなることがあります。
「複数の理由を書く」という項目なのに、理由ではなく単なる実例を書いてしまう子が意外と多いのです。
それは、実例を理由というレベルまでに高めるための考える力がないからです。
例えば、「テストはよいか悪いか」というテーマの作文のときに、「私は・テストが嫌いです。この前……」と、実例を書いてしまうというようなことです。
同じようなテーマで、「宿題はよいか悪いか」「人助けはよいか悪いか」「ポイ捨てはよいか悪いか」「クジラを食べるのはよいか悪いか」などがあります。
そのときに、「私は、クジラを食べたことがありません」というような実例を書いてしまう子も多いのです。
どんな意見には、正解はありません。
どういう意見も、成り立ちます。
しかし、その意見の裏付けになる理由が必要で、また、その理由の裏付けとなる実例が必要です。
「意見←理由←実例」という関係です。
理由を述べる際に、「好き」とか「嫌い」とかいう言葉は、論理になりません。
ところで、話は変わりますが、女の子が愚痴をこぼしたとき、それ聞いている女の子は、その話に共感して対応します。
だから、話がはずみます。
ところが、女の子の愚痴を聞いた男の子は、原因や対策を考えるのです。
それで、話がつまらなくなります(笑)。
一般に、女の子がお喋りなのは、実例中心に話をしているからです。
男の子も、実例中心の話をしますが、本当は実例の話には飽き飽きしていることが多いのです。
ところで、また、話は変わりますが、ディベートという授業があります。
私は、日本人には、ディベートは必要ないと思います。
他人を論理で批判しても、なにも得るところはありません。
それよりも、他人の意見に共感して、その共感と自分の考えをすり合わせるのが日本文化です。
論理は必要です。
しかし、その根底に、異なる意見に対する共感が必要なのです。