ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」は、意識と言語の起源について、心理学、生理学、歴史学、哲学、文学を駆使して大胆な仮説を立てた著作です。この中で、著者は、比喩は言語の本質であり、ひいては意識の本質であるというようなことを述べています。
これは、私たちが考えても、確かに納得できるところがあります。
初めて声を発することができるようになった原始時代の私たちの先祖たちは、大きいトラが「ウォー」を吠えるのを見て、その大きさを「オオ」という言葉で表したかもしれません。また、小さなネズミが「チーチー」といいながら逃げるの見て、その小ささを「チイ」という言葉で表したかもしれません。そして、仲間に何かを伝えるとき、例えば、向こうの山には大きいクリの実がなっているが、こちらの山には小さいクリの実しかなっていないというときに、向こうの山を指さして「オオ(きい)」、こちらの山を指さして「チイ(さい)」と言ったのだと思います。
トラやネズミの大きさをクリの実の大きさにたとえるというこの比喩が言語のもともとの姿です。
比喩は、現代でも、日々新しい言葉を生み出しています。例えば、雨の降り方を表すのに、「滝のような雨」「糸のような雨」「横殴りの雨」など様々な表し方があります。大味の概念を微妙な差のわかる概念にまで細分化することが比喩の役割です。
この比喩と似た効果を持つものに名言があります。例えば、「民主主義は教科書には書かれていない」という言葉があります。民主主義は、出来上がった形で与えられているものではなく、自分たちが日々試行錯誤の中で作っていくものだという意味です。「○○はAではなくBである」という表現によって、思想の輪郭をはっきりさせるというのが名言の役割です。
比喩や名言と同様な役割を果たすものに、もう一つダジャレがあります。ダジャレの発想は、比喩と同じです。
面白いダジャレを考えることができる能力は、個性的な比喩を考えることができるという能力に比例しています。
この比喩や名言がやがて、ことわざや故事になり、次第に陳腐になり、やがて新鮮さも陳腐さも消えて新しい概念または新しい言葉として定着していきます。
こう考えると、人間の言語の歴史は、それほど古くはありません。これからも次々と比喩が生まれ、その比喩が新しい言葉になり、新しい言葉がますます増えていくという言語の歴史が予想されます。
ところで現在でも、比喩をうまく使える子と、ありきたりの形でしか使えない子とがいます。この差はどこから来るかというと、やはり語彙に対する習熟度の違いから来ています。言葉を自分の手足のようによくなじんだ形で使える子は、面白い比喩を作ることができます。しかし、言葉を不便な道具のように使う段階の子は、まだうまく比喩が使えません。
語彙力の差は、読む力の差として表れてきます。漢字の書き取りの力は、書き取りの練習量に比例しています。しかし、漢字の読みの力は、練習量よりもむしろ読書量に比例しています。
大学入試センター試験では、語彙を問う問題が毎年出ています。
この語彙の問題を正しく答えられる人は、本をよく読んでいる人で、正しく答えられない人は本をあまり読んでいないということがわかります。
この差は通常の勉強の差と違って、読書の蓄積の差なので、短い時間では埋めがたいものがあります。
センター試験の問題では、こういうものがあります。
(問)名状し難い
1.言い当てることが難しい
2.名付けることが不可能な
3.意味を明らかにできない
4.何とも言い表しようのない
5.全く味わったことのない
答えは4
(問)気の置けない
1.気分を害さず対応できる
2.遠慮しないで気楽につきあえる
3.落ち着いた気持ちで親しめる
4.気を遣ってくつろぐことのない
5.注意をめぐらし気配りのある
答えは2
(問)是非に及ばない
1.言うまでもない
2.話にもならない
3.善悪が分からない
4.やむを得ない
5.判断ができない
答えは4
ほかに、「老成した」「率先垂範」「のっぴきならない」「小康」「固唾を呑んで」などの語彙を問う問題もあります。これらは国語の勉強というよりも読書の中で自然に身につくものでしょう。
これらの語彙を自然に知っているということが、比喩を上手に使う力と結びついているのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)