常体は、自分の心の内部に確認しながら書く書き方です。ですから、日記や思索などは、常体で書くのが一般的です。
「果たして、あれでよかったのだろうか。僕は、それでよかったのだと思う。」などという書き方です。
敬体は、他の人に呼びかける言葉づかいです。したがって、手紙や対話などは、ていねいな敬体が一般的です。
「果たして、あれでよかったのでしょうか。私は、それでよかったのだと思います。」などという書き方です。
小学校の国語の教科書では、小学4年生までは敬体の方が多くなっています。しかし、小学5年生から、常体と敬体が半々になり、やがて常体の方が多くなってきます。それは、教科書の内容が物語的、対話的なものから、次第に説明的、思索的なものに変わっていくからです。
読書でも、やさしい物語文は敬体が多く、難しい説明文は常体が多いという傾向があります。
したがって、一般に、高校生で敬体を書きがちな子は、あまり本を読んでいないといえます。逆に、小学校低学年で常体を書きがちな子は、よく本を読んでいるという傾向があります。読書好きと常体は、意外と高い相関があるのです。
常体で書く子は、ほぼ共通して作文が得意です。敬体で書く子には、得意な子も苦手な子もいます。
作文や小論文の試験では、常体の方が書きやすいというのは、意見を論じるようなテーマが多いからです。
また、常体は、文末の変化をつけやすいという利点があります。敬体は、いつも同じような「です」「ます」「でした」「ました」になりますが、常体は自然にさまざまに変化します。
日本語は、英語などに比べて文末が同じ単調な形になりやすいので、その点でも常体の方が文章を書くことには向いているようです。しかし、手紙的なものは敬体の方が自然なので、志望理由書などは、常体と敬体のどちらでも書きます。
昔の日本語は、この文末の単調さを避けるために、なかなか区切りの来ない、だらだらした文を書くか、一律に「候(そうろう)」で終わる形式で書きました。
しかし、現代の日本語は、平均40-50字ぐらいの文で区切るのが一般的です。そして、文末も単調にならないように工夫しなければならないので、昔よりも文章を書くことが難しくなっています。
面白いのは、話し言葉です。大抵の場合、話し言葉は昔の日本語のように、句点のなかなか来ない、だらだらした文として続きます。
「果たして、あれでよかったのでしょうかというと、私は、それはそれでよかったと思うのですが、また、一方では、それはよくないのではないかという人もいて、まあ、いろいろな考え方があるのではないかという気がしますが、私はやはり……」と延々と続いていっても、聞き手はあまり違和感を感じません。文末の単調さを避けるために、日本語は文末がなかなか来ない文になる傾向があるのです。
さて、常体と敬体は、混ぜないのが原則ですが、混ぜる書き方を意識的にする人もいます。
「形容詞+です」という形の「うれしいです」などは、昔は間違いと言われていました。現在は、「うれしいです」も認められています。しかし、まだ言葉の感覚として抵抗を感じる人も少しいるようです。
敬体の文章の中に、「うれしい。」という形が入っても、敬体と常体の混用ではないので間違いではありません。
このようなことを考えると、将来は、常体と敬体の区別はあまりうるさくは言われなくなるような気もします。しかし、現在では、敬体と常体を混ぜて書くと、区別があることを理解していないと見なされ、作文試験では、大幅減点になります。
言葉の森では、常体と敬体の区別を知るために、小学4年生までは敬体で書く練習をし、小学5年生からは常体で書く練習をしています。
敬体と常体の区別は簡単です。敬体は、「です」「ます」「でした」「ました」だけです。せいぜい、「でしょう」「ましょう」「ません」が付け加わるだけです。だから、それ以外が常体と考えておけば、読み返すときに、常体と敬体が混じっていないかどうかを確かめることができます。
と、真面目なことばかり書いているとつまらないので、もうひとこと。
さて、話し言葉では、常体、敬体以外の形もよく使われます。
「僕は、君が好きだ。」「僕は、あなたが好きです。」というかわりに、「僕は、あなたが好き、なんて言っちゃったりして。」というような言い方です。
やがて書き言葉にも、こういう便利な形ができるようになるかもしれません、なんて言っちゃったりして。
というのは、冗談だよーん。(こういうのもあった)