子供の成長にとって、父親と母親の役割は、それぞれ違う形で重要です。
父親は主に躾を担当し、母親は主に愛情を担当します。もちろん、どちらにも両方の役割が必要ですが、敢えて役割を分担すればそのようになるということです。もちろん、逆の家庭もあるとは思いますが(笑)。
教室で、時々次のような子がいます。先生に何かを言われても、すぐに返事をしない。「これをして」と先生が言っても、平気で「いやだ」「やらない」などと言う。一度で言うことを聞かずに、何度か言われて初めて言うことを聞く。
いずれもかわいい子供たちですが、やっていることがにくたらしいのです(笑)。しかし、これらは、すべて子供たちの問題ではなく、家庭でこれまで子供たちがそういう態度をとっていても、親がそれをそのままにしてきたという問題なのです。
しかし、子供ですから直すのも簡単です。教室で一度厳しく注意すると、次からはちゃんとできるようになります。
子供と犬を比較するのは問題がありますが、吠えるなと言っても吠える犬、噛むなと言っても噛む犬、待てと言っても待たない犬、おいでと言っても来ない犬などは、もともとの犬の性質による面もありますが、大部分は人間の躾の仕方によるものです。
躾の最も決定的な場面は、褒めて直すところではなく、叱って直すところにあります。確かに、いつでも優しく褒めるというのも難しいことですが、もっと難しいのは、肝心なときに、しっかり短く厳しく叱るということです。
本当は、優しく褒めるだけでいい子に育てばいいのですが、人間の先祖はもともとサルですから(という理由は変かもしれませんが)、たまには叱らないと、やはりいい子にはならないのです。
肝心なときに叱ることができれば、普段は、子供も親も楽しい関係を保つことができます。しかし、それが、多くの家庭では、逆になっています。つまり、肝心なところで叱っていないから、いつも小言を言うような接し方をして、子供も親も一緒にいるとくたびれるということになるのです。
肝心なときに叱っていない最大の理由は、主に父親が叱りなれていないということにあると思います。そして、父親が叱りなれていない原因は、それまでに子供を叱る経験があまりなかったことによるものです。
では、叱る経験を増やすためにはどうしたらいいのでしょうか。
そのためには、まず小学校低学年のころから、家庭での絶対に守るルールを一つ決めておくことです。例えば、朝起きたらあいさつをする、玄関の靴をそろえて脱ぐ、席を立ったらイスをしまう、家の仕事を手伝うなどです。実行しやすいものをどれかひとつ決めておき、そのことに関してだけは絶対に妥協せず厳しく守るということにします。
ただし、これは、両親がともに実行できるものでないと徹底しません。お母さんが子供に、「玄関の靴をそろえるのよ」と言っても、お父さんが平気で脱ぎ散らかしていては子供に徹底できません。子供は、何回か叱ればできるようになりますが、大人は何回注意しても直りません。それは互いに人生の価値観が違うのですから仕方ないとあきらめて、両親がともに無理なく実行できるルールを家庭でのルールとして決めておくことです。
そして、家庭でこのようにルールを決めておき、子供がそれを実行できていないときに厳しく叱るようにします。そのときに厳しく叱る役割は、やはり父親の方が向いています。そのときに、母親は、「そんな強く叱らなくても」などとは言わないことです。これは、叱り叱られる練習をしていることだからです。そのかわり、母親はあとで優しくフォローしてあげればいいのです。間違っても、父親が子供を叱っているときに、母親も一緒になって子供を叱らないことです。
このように、家庭の中で、やれば当然できるというルールを決め、できていないときは厳しく叱るということにして、それを年齢に応じて少しずつ変えていきます。
よく中学生や高校生で、母親に乱暴な言葉づかいをする子がいると思います。例えば、母親が何か注意すると、「うるせえなあ。わかったよ」などと言う子です。いるでしょ(笑)。そういうときは、即座に間髪入れずに、「何だ。その言い方は! ちゃんと言い直せ」と叱らなければなりません。
そういう叱り方ができないとしたら、それは、小学校のころから親が厳しく注意をしたことがあまりなかったからです。しかし、小学校のころに厳しく叱って育てていない子に、中学生になって厳しく叱るというのはまずできません。叱り方も、親が試行錯誤の中で少しずつ身につけていくものだからです。
ところで、「厳しく叱る」というと、多くの人は「かわいそう」という感じを持つと思いますが、そういう叱り方ではありません。厳しく叱っている最中でも、親は心の中では全然怒っているわけではありません。だから、叱ったすぐあとに、さらりと冗談を言って笑わせるようなこともときどきするといいのです。
そういう厳しいが明るい叱り方をするというのも、やはり試行錯誤の積み重ねの中でできるようになることだと思います。
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日本人以外のすべての民族が、子音を含む言語だけを左脳の言語脳で処理し、ほかの音は全部右脳で処理するのに対して、日本人だけは、子音の言語だけでなく、母音だけの音、自然の音、邦楽の音、感情の動きなど、楽器音や雑音以外のほとんどの音を左の言語脳で処理しています。この日本人の脳の仕組みを日本語脳と言います。
では、その日本語脳を勉強を生かすためには、どうしたらよいでしょうか。
まず最初に考えられるのは、勉強の邪魔にならないような脳の使い方です。
日本人は、言語だけでなく、自然の音や、琴・尺八などの邦楽の音も、左脳の言語脳で処理します。したがって、考える勉強をしているときに、波の音や鳥の声又は琴の音色などが聞こえると、それらの音が言語処理の左脳に入ってくるので、勉強が進まなくなります。
ある会社で、正月に邦楽を流して仕事をしたところ、社員から仕事ができないという苦情が多く出て取りやめになったことがあるそうです。
作文を書いているときは、脳をかなり酷使しているときなので、このような音が流れない環境で書く作業を行うことが大切です。
また、人の話し声は、小さな声でも左の言語脳を刺激します。したがって、勉強をしているときにはテレビなどは消すか、あるいは各人それぞれのヘッドホンで聞くというやり方をする必要があります。
よく音楽を聴いて、ながら勉強をする人がいますが、思考作業と両立する音は、雑音か楽器のみの西洋音楽です。しかし、不快な音は感情を刺激し、日本人の場合は感情も左脳で処理するので、不愉快な雑音では勉強の邪魔になります。
すると、ながら勉強にいい音は、聴きなれた西洋音楽になるので、クラシックなどが静かに流れている中で勉強するのがいいということになります。しかし、もちろん、だれにとってもいちばんいいのは、音のない静かな環境で勉強をすることです。
次に、日本語脳を、勉強を進めるのに生かすということで考えてみます。
頭をよくすることにも、日本語脳を活用することができます。
その前に、「頭をよくする」といった場合の「頭のよさ」とは何かということを考えてみます。
私は、頭のよさというのは、(1)物事を理解する力、そして、(2)物事を創造する力、更にもう一つ付け加えるならば、(3)物事を表現する力、の三つになると思います。理解力、創造力、表現力の三つです。
理解力というのは、主に、知識を吸収する力です。創造力というのは、吸収した知識を組み立て直す力です。表現力というのは、その組み立て方をわかりやすく美しく表現する力です。
知識の吸収は、左脳の言語脳で処理されますが、これを左脳で処理するだけでなく、右脳のイメージ脳や音楽脳に結びつけていくことが、これらの力を発達させる要因になっていると思います。つまり、頭をよくするということは、左の言語脳と右のイメージ音楽脳との連携をよくすることなのです。
こう考えると、暗唱というのは、言語を一種の音楽として右脳に結びつける働きがあります。また、言葉の森で作文の前に書いている構成図は、言語を右脳のイメージ脳に結びつける働きがあります。つまり、暗唱練習や構成図の練習が、頭をよくすることに結びついているのです。暗唱は主に理解力育成の面で、構成図は主に創造力育成の面で役に立ちます。
ただし、創造力という能力が現実的な力として発現するまでには時間がかかるので、構成図が創造力に役立つというのは、ある程度の年齢になって知識の蓄積が進んでからになると思います。
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なるほど!おもしろいですね。勉強の方法も、科学的にとらえて理論的に考えると、とても説得力があります。作文といっしょですね(笑)
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日本は、敗戦後の復興を、国内産業の保護、輸出産業の育成という方向で行ってきました。それが、やがて日本と欧米との貿易摩擦を生み出すまでに成功を収めてきました。
この成功体験に目をくらまされているのが、現在の日本の姿です。
アメリカが金融資本主義の行き過ぎで失速し、日本からの輸出を受け入れられなくなってきたとき、日本の輸出産業は、アメリカ以外の新たな輸出先を探しました。
ただし、アメリカの輸入代金は、日本が米国債という形でアメリカに貸したお金でしたから、本当は日本は輸出に力を入れるよりも、もっと国内を豊かにすることに力を入れていけばよかったのです。
さて、日本が輸出先を新たに見つけようとしたときに、最初に目についたのが、発展途上の中国の14億の人口でした。
しかし、これが実は、日本にとって成功体験の罠になろうとしているのです。
アメリカでの消費は、その先進国という性格上、自動車にしても家電製品にしても、比較的新しいものや高級なものに重点が置かれてきました。
中国での消費は、その発展途上国という性格から、既にある古い製品で安いものを中心に需要される傾向があります。
ここで、日本の企業が何しろ売れればいいと考えて生産をすると、日本の産業が、中国の消費の性格から変質する可能性があります。
顧客が高度な審美眼を持ち、製品に高性能を要求するものであれば、生産者は、そういう生産に適応しようとします。顧客が、多少粗悪品でも安ければいいと考えるならば、生産者はやはりそういう生産になじんでいきます。
例えば、観光客用の料理店を考えてみると、その店に来る人が味と雰囲気にうるさければ、洗練された料理を作るために、人にも材料にも配慮しなければなりません。しかし、店に来る客の多くが、味や雰囲気よりも安さやボリュームを要求するならば、その店は、腕のいい料理人よりも安いアルバイトを使い、いい材料の調達よりも何しろ安いものを使うという体制になります。
そして、いったんそういう生産体制になると、ほかにも同じような安さとボリュームの店が次々とできるようになったときに、元の洗練された料理店に戻ろうとしても戻れなくなります。
中国での需要は、そういう性格を持っています。需要に合わせて最初は売れても、やがてそういう製品は中国でも同じように生産できるようになります。そのときに、元の高度な製品作りに戻ろうと思っても、そのための人材やノウハウがなくなっている可能性があるのです。
大きなマーケットに目を奪われて、どこでも作れるものをより安く作る方向に向かうならば、日本の持ち味はなくなります。だから、中国のマーケットに進出することや、中国の観光客を受け入れることは、一考を要することなのです。
もちろん、中国が日本の製品を輸入するとか、日本に観光に来るとかいうことは、拒むことではなく歓迎することです。しかし、それは、日本が日本独自の持ち味を保っていることが前提になります。中国に合わせて、製品を買ってもらうとか、観光に来てもらうとかいう態度で対応するものではありません。
今の日本で、中国に輸出しなければやっていけないという産業は、大きな目で見ると過去の産業です。大きな企業は急には方向転換ができませんから、しばらくは中国のマーケットをあてにしてやっていくことはやむをえません。しかし、長期の戦略は、中国から離れてやっていく力をつけることです。
そして、今の中国から離れる力をつけることは、実は、未来の世界のマーケットを先取りする力をつけていることになるのです。
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